2013年09月05日
奄美の歴史を感じて ~夜光貝細工体験~
8月23日(金) 瀬戸内町立図書館・郷土館にて
思わず、触りたくなっちゃう夜光貝細工体験が行われました。

参加者は、京都府から奄美大島にやってきた、
こたやんさん(K+(ケイプラス)キッズ商会)率いる小中高生と
シマの(嘉鉄)小中学校の生徒たち。

子供たち、瀬戸内町のヤドリ浜で、夏休みを利用したキャンプ生活の真っ最中!!
この奄美キャンプは、島の歴史・文化・自然を通して
普段の生活ではできない体験を肌で感じてもらい、地元の人たちとの交流を大事にしたい!
そんな思いのつまった企画!
前日までは、海水浴やシーカヤックを体験。
キャンプの最終日には、地元の子どもたちとの交流会なども予定されているそうです。
キャンプ4日目(8/23)のこの日、
子どもたちには、夜光貝の輝きでさらにパワーアップして奄美を満喫してもらいました!
本日の講師は、
瀬戸内町立図書館・郷土館 埋蔵文化財担当学芸員の 鼎(かなえ) 丈太郎さん

今回は、シマの歴史についてお話が聞けるので、個人的にも楽しみにしていました!!
まずは、図書館の2階にある郷土館を見学しました。
郷土館内は、奄美の歴史・自然・文化・暮らしのコーナーに分かれていて展示品もとても充実しています。
≪奄美の生き物・植物写真など展示≫

「奄美大島でキャンプするときは、絶対草むらに入っちゃいけないと言われたよ」
「ハブってホントにいるの?」 (標本を指さして) 「これとこれとこれとどっちが強い?」
「ハブでたらどうすればいいの?向かってくるの??飛ぶって???」
ちょっと慣れてきているキャンプ生活。
再度、気が引き締まるようなお話でしたね。
≪奄美の妖怪≫

ヤドリ浜にもケンムンが多いと聞き、唾をのむ子も!!
≪奄美の昔の暮らし≫

漁具・農具が多く展示されています。
子どもたちも漁の道具に興味深々。
≪瀬戸内の民家≫

「あ~こんな家に住みたい!」 なんて声も!!
敷地の門と母屋の玄関の間にある垣根は、台風の風を防いだり、魔物を防ぐ役割もあるよ。
サンゴの石垣の上にある貝も魔除けだよ。
という説明を聞き、どよめきが!!
「まもの?いるん・・・」
≪瀬戸内の文化財≫

戦争への疑問を大人にぶつける。
子供たちの関心が高くて驚きました!!
私も戦争を知らない世代ですが、私たちが知ることで子どもたちへとつながっていくことを実感しました。
生まれた場所の、育った場所の、住んでいる場所の、こうした時代を経て今があること。
そうした歴史を知ることは、とても大事なことだと改めて考えさせられました。

諸鈍シバヤは、島の子どもたちも演じています。
同世代の子どもたちが伝承している姿は、都会の子どもたちにどう映るのでしょうか。
ぜひ、一度、現地で見てもらいたいですね。
京都の生活とまったく違う奄美の文化・暮らしに、子供たちは興味津々です。
次から次へと質問攻めにあう鼎学芸員。
丁寧に一つずつ答える鼎さんのお話を、子供たちもしっかりと聞いていました。
ブログをご覧のみなさまも
ぜひ瀬戸内町へお越しの際は、瀬戸内町立図書館・郷土館にお立ち寄りください!
面白い発見があるはずですよ!!
さあ、いよいよ夜光貝細工体験です。
まずは、小さく切り取った夜光貝パーツを選んでいきます。

見本に鼎さんの作品が並んでいます。

子どもたちは、夜光貝の作品に釘付け!
夜光貝は、大型の巻貝サザエの仲間で、奄美大島や屋久島は、生息地の北限にあたります。
九州以北には生息しない貝です。
古代の人々は、南海産の貝類を求めて、海を渡ってきたといわれています。
どれほどの肉体と精神力を持っていたのでしょう。
想像するだけで、ワクワクしてしまいます。

6~8世紀ごろの遺跡から、土器や石器、鉄器、貝札、魚の骨・獣骨などの遺物とともに、ヤコウガイの貝匙が発見されました。
この時期を代表する遺跡に 「小湊フワガネク遺跡」があります。
この時代のヤコウガイ貝匙加工場の一大拠点として、さらに九州や本土との交易があったことでも注目されています。
この貝匙は、いったい何に使われていたのでしょうか?
平安時代の文献によると、
「夜久貝(ヤクガイ)」、「夜句貝」、「屋久貝」などの記述があり、これらは、ヤコウガイを指すといわれています。
現在では、「夜光貝」と書かれますね。
いつからこの漢字が使われるようになったのか?個人的に気になっているところでもあります。
平安時代には、「螺杯(らはい)」「螺盃」としての記述もあることから、
酒盃(しゅはい)として特別な儀式などで使われていたのではないか?とも考えられています。
そこで、実際にヤコウガイの貝匙にお酒ではなく、水を入れてみました。

実際、口に運んでみると(真似だけですよ)
目の前で、虹色に輝いているではありませんか!
この輝きを昔の人々は、とても珍しく、とても大事にしていたということなのでしょう。
子供たちには、この輝きを体験してもらうために、貝匙で水を汲んで準備してもらいました!

“ものつくり”には、発見があります。
地道な手作業だからこそ、指先で感触を確かめれるようになります。

準備ができたら、11枚の耐水ペーパーを使ってコツコツと磨いていきます。
磨き方は、昨年の記事を参考にしてください!

みんな夢中で磨き続けます!!
磨き方にも個性がよく出ていますよ。自分が納得いくまで磨き続けてます!!

嘉鉄小中学校の子どもたちは、何度か体験したことがある経験者!
むずかしい粒を選んで、丸く成形を頑張っている子もいました!!

納得いくまで磨きたい!ということで、キャンプ場に持ち帰り磨くことにした子も!

好きな色の携帯ストラップを選んで仕上げています!
約1時間半で、素敵な作品が出来上がりました!!!

夜光貝細工は、磨けば磨くほど輝いていきます。
夢中になって磨く時間、作り上げる達成感を味わってもらえたら嬉しいですね!
また、奄美の歴史の中でも夜光貝は、貴重な存在。
古代から生息する夜光貝が、今でも美味しく食べられていることはもちろん、
貝殻は、玄関先に飾られていたり、花瓶やアクセサリー作りに利用されたりと、今でも奄美の暮らしの中で身近にあります。
奄美の海に生き続ける貴重な存在として、これからも大事にしていきたいですね。
元気のある子どもたちでとっても楽しい講座となりました!
ありがとうございました!!!
2013.09.03
瀬戸内町 古仁屋
調査員 Tadashi
思わず、触りたくなっちゃう夜光貝細工体験が行われました。
参加者は、京都府から奄美大島にやってきた、
こたやんさん(K+(ケイプラス)キッズ商会)率いる小中高生と
シマの(嘉鉄)小中学校の生徒たち。
子供たち、瀬戸内町のヤドリ浜で、夏休みを利用したキャンプ生活の真っ最中!!
この奄美キャンプは、島の歴史・文化・自然を通して
普段の生活ではできない体験を肌で感じてもらい、地元の人たちとの交流を大事にしたい!
そんな思いのつまった企画!
前日までは、海水浴やシーカヤックを体験。
キャンプの最終日には、地元の子どもたちとの交流会なども予定されているそうです。
キャンプ4日目(8/23)のこの日、
子どもたちには、夜光貝の輝きでさらにパワーアップして奄美を満喫してもらいました!
本日の講師は、
瀬戸内町立図書館・郷土館 埋蔵文化財担当学芸員の 鼎(かなえ) 丈太郎さん
今回は、シマの歴史についてお話が聞けるので、個人的にも楽しみにしていました!!
まずは、図書館の2階にある郷土館を見学しました。
郷土館内は、奄美の歴史・自然・文化・暮らしのコーナーに分かれていて展示品もとても充実しています。
≪奄美の生き物・植物写真など展示≫
「奄美大島でキャンプするときは、絶対草むらに入っちゃいけないと言われたよ」
「ハブってホントにいるの?」 (標本を指さして) 「これとこれとこれとどっちが強い?」
「ハブでたらどうすればいいの?向かってくるの??飛ぶって???」
ちょっと慣れてきているキャンプ生活。
再度、気が引き締まるようなお話でしたね。
≪奄美の妖怪≫
ヤドリ浜にもケンムンが多いと聞き、唾をのむ子も!!
≪奄美の昔の暮らし≫
漁具・農具が多く展示されています。
子どもたちも漁の道具に興味深々。
≪瀬戸内の民家≫
「あ~こんな家に住みたい!」 なんて声も!!
敷地の門と母屋の玄関の間にある垣根は、台風の風を防いだり、魔物を防ぐ役割もあるよ。
サンゴの石垣の上にある貝も魔除けだよ。
という説明を聞き、どよめきが!!
「まもの?いるん・・・」
≪瀬戸内の文化財≫
戦争への疑問を大人にぶつける。
子供たちの関心が高くて驚きました!!
私も戦争を知らない世代ですが、私たちが知ることで子どもたちへとつながっていくことを実感しました。
生まれた場所の、育った場所の、住んでいる場所の、こうした時代を経て今があること。
そうした歴史を知ることは、とても大事なことだと改めて考えさせられました。
諸鈍シバヤは、島の子どもたちも演じています。
同世代の子どもたちが伝承している姿は、都会の子どもたちにどう映るのでしょうか。
ぜひ、一度、現地で見てもらいたいですね。
京都の生活とまったく違う奄美の文化・暮らしに、子供たちは興味津々です。
次から次へと質問攻めにあう鼎学芸員。
丁寧に一つずつ答える鼎さんのお話を、子供たちもしっかりと聞いていました。
ブログをご覧のみなさまも
ぜひ瀬戸内町へお越しの際は、瀬戸内町立図書館・郷土館にお立ち寄りください!
面白い発見があるはずですよ!!
さあ、いよいよ夜光貝細工体験です。
まずは、小さく切り取った夜光貝パーツを選んでいきます。
見本に鼎さんの作品が並んでいます。
子どもたちは、夜光貝の作品に釘付け!
夜光貝は、大型の巻貝サザエの仲間で、奄美大島や屋久島は、生息地の北限にあたります。
九州以北には生息しない貝です。
古代の人々は、南海産の貝類を求めて、海を渡ってきたといわれています。
どれほどの肉体と精神力を持っていたのでしょう。
想像するだけで、ワクワクしてしまいます。
6~8世紀ごろの遺跡から、土器や石器、鉄器、貝札、魚の骨・獣骨などの遺物とともに、ヤコウガイの貝匙が発見されました。
この時期を代表する遺跡に 「小湊フワガネク遺跡」があります。
この時代のヤコウガイ貝匙加工場の一大拠点として、さらに九州や本土との交易があったことでも注目されています。
この貝匙は、いったい何に使われていたのでしょうか?
平安時代の文献によると、
「夜久貝(ヤクガイ)」、「夜句貝」、「屋久貝」などの記述があり、これらは、ヤコウガイを指すといわれています。
現在では、「夜光貝」と書かれますね。
いつからこの漢字が使われるようになったのか?個人的に気になっているところでもあります。
平安時代には、「螺杯(らはい)」「螺盃」としての記述もあることから、
酒盃(しゅはい)として特別な儀式などで使われていたのではないか?とも考えられています。
そこで、実際にヤコウガイの貝匙にお酒ではなく、水を入れてみました。
実際、口に運んでみると(真似だけですよ)
目の前で、虹色に輝いているではありませんか!
この輝きを昔の人々は、とても珍しく、とても大事にしていたということなのでしょう。
子供たちには、この輝きを体験してもらうために、貝匙で水を汲んで準備してもらいました!
“ものつくり”には、発見があります。
地道な手作業だからこそ、指先で感触を確かめれるようになります。
準備ができたら、11枚の耐水ペーパーを使ってコツコツと磨いていきます。
磨き方は、昨年の記事を参考にしてください!
みんな夢中で磨き続けます!!
磨き方にも個性がよく出ていますよ。自分が納得いくまで磨き続けてます!!
嘉鉄小中学校の子どもたちは、何度か体験したことがある経験者!
むずかしい粒を選んで、丸く成形を頑張っている子もいました!!
納得いくまで磨きたい!ということで、キャンプ場に持ち帰り磨くことにした子も!
好きな色の携帯ストラップを選んで仕上げています!
約1時間半で、素敵な作品が出来上がりました!!!
夜光貝細工は、磨けば磨くほど輝いていきます。
夢中になって磨く時間、作り上げる達成感を味わってもらえたら嬉しいですね!
また、奄美の歴史の中でも夜光貝は、貴重な存在。
古代から生息する夜光貝が、今でも美味しく食べられていることはもちろん、
貝殻は、玄関先に飾られていたり、花瓶やアクセサリー作りに利用されたりと、今でも奄美の暮らしの中で身近にあります。
奄美の海に生き続ける貴重な存在として、これからも大事にしていきたいですね。
元気のある子どもたちでとっても楽しい講座となりました!
ありがとうございました!!!
2013.09.03
瀬戸内町 古仁屋
調査員 Tadashi
2013年09月04日
隊長鼎のつれづれ夏休み絵日記 ~せとなみ~
隊長鼎の夏休み絵日記 待望の第二段?
「せとなみ 船上からの風景」
平成25年7月19日(金)
瀬戸内町内に住んでいても、なかなか行く機会のない「与路島」へ行ってきました。
「せとなみ」に乗って、いざ出発!!

せとなみに乗るのも久しぶりです。
まず、見えてきたのは「待ち網崎」

戦時中は、海軍の対空砲の基地があり、かなり防戦をした所です。
現在は、観光公園として整備されています。
次に見えてきたのは、安脚場集落。

砂丘が綺麗な集落です。
風の当たらない砂丘の向こう側に集落があるので、海からだと家が目立ちませんね。
ちなみに、瀬戸内町で確認されている最古の遺跡「安脚場遺跡」は、ここにあります。
つづいて、カネンテ崎。

こちらも、戦時中の基地がある場所。
探照灯が設置された場所が、かろうじて見えています。
船は、加計呂麻島の東側を南進します!

見えてきたのは、潮吹き岩!!
波が寄せるたび、潮を吹きます。見ていて飽きません。
そして船の行く手に見えるのは、「ひよこ」。

福岡銘菓の「ひよこ」に似ているからなのか?
瀬戸内町の人々に「ひよこ」と呼ばれています。
他にも「見返り猫」と言う人もいます。
あなたは、何に見えますか?
船は、請島「請阿室」に寄港し、タンデ島の横を通って、

請島のシンボル「大山」を望みます。

希少種も多く、入山するには申請が必要です。
池地港の風景

綺麗な風景に仕事できたことを忘れてしまいそうです。
さあ船は、請島水道を走って、与路島を目指します!!

だんだんタンデ島も遠くなっていきます。
請島水道から、ふと加計呂麻島の方を見てみると、遠くに島影が
生まれ故郷で現在も住んでいる「奄美大島」。

右は「高地山と油井岳」
すると…もしかして、左は
「湯湾岳?」
視界がいい日とはいえ、この場所から「湯湾岳」 見えるのでしょうか?
さあ、ついに「ハミャ島」です。

小さい島でありながら、この砂丘のインパクトは、見る者を圧倒します。
天気が良すぎたこの日、
「せとなみ」は揺れることもなく、とても快適な船旅でした。
機会があったら、皆様もぜひ、「せとなみ」の船旅をどうぞ!
隊長鼎のつれづれ夏休み絵日記 「与路島編」は、後日?
乞うご期待?
130719 瀬戸内町 加計呂麻島 請島 与路島
S.B.I 隊長 鼎
「せとなみ 船上からの風景」
平成25年7月19日(金)
瀬戸内町内に住んでいても、なかなか行く機会のない「与路島」へ行ってきました。
「せとなみ」に乗って、いざ出発!!
せとなみに乗るのも久しぶりです。
まず、見えてきたのは「待ち網崎」
戦時中は、海軍の対空砲の基地があり、かなり防戦をした所です。
現在は、観光公園として整備されています。
次に見えてきたのは、安脚場集落。
砂丘が綺麗な集落です。
風の当たらない砂丘の向こう側に集落があるので、海からだと家が目立ちませんね。
ちなみに、瀬戸内町で確認されている最古の遺跡「安脚場遺跡」は、ここにあります。
つづいて、カネンテ崎。
こちらも、戦時中の基地がある場所。
探照灯が設置された場所が、かろうじて見えています。
船は、加計呂麻島の東側を南進します!
見えてきたのは、潮吹き岩!!
波が寄せるたび、潮を吹きます。見ていて飽きません。
そして船の行く手に見えるのは、「ひよこ」。
福岡銘菓の「ひよこ」に似ているからなのか?
瀬戸内町の人々に「ひよこ」と呼ばれています。
他にも「見返り猫」と言う人もいます。
あなたは、何に見えますか?
船は、請島「請阿室」に寄港し、タンデ島の横を通って、
請島のシンボル「大山」を望みます。
希少種も多く、入山するには申請が必要です。
池地港の風景
綺麗な風景に仕事できたことを忘れてしまいそうです。
さあ船は、請島水道を走って、与路島を目指します!!
だんだんタンデ島も遠くなっていきます。
請島水道から、ふと加計呂麻島の方を見てみると、遠くに島影が
生まれ故郷で現在も住んでいる「奄美大島」。
右は「高地山と油井岳」
すると…もしかして、左は
「湯湾岳?」
視界がいい日とはいえ、この場所から「湯湾岳」 見えるのでしょうか?
さあ、ついに「ハミャ島」です。
小さい島でありながら、この砂丘のインパクトは、見る者を圧倒します。
天気が良すぎたこの日、
「せとなみ」は揺れることもなく、とても快適な船旅でした。
機会があったら、皆様もぜひ、「せとなみ」の船旅をどうぞ!
隊長鼎のつれづれ夏休み絵日記 「与路島編」は、後日?
乞うご期待?
130719 瀬戸内町 加計呂麻島 請島 与路島
S.B.I 隊長 鼎
2013年09月01日
島のお盆(送り) 西古見
旧暦お盆の3日目、送り盆。
ふたたび西古見を訪れました。
「中日(なかび)」と呼ばれる2日目は、
親戚の家や、他の家へ拝みに回ったりします。
西古見で働く古志(こし)在住のかたによると、
古志では、「中戻し(なかもどし)」と言って
窓に提灯をつけておくと、
初日に迎えたご先祖さまが2日目の午後3時ぐらいに
いったんあの世に戻っていくそう。
その後、ふたたび勝手に(!)自分でこの世に戻ってくるとか。
集落によっては、
14日の夕方にいったんお墓に送る集落もかなりあるようです。
その後は15日に、また迎えに行ったり、
自分で戻ってきたりとさまざまな「中戻し」があります。
* *
送り盆の日、
まずお話をうかがったのは、茂(しげる)さんのお宅。
イフェダナ(位牌棚)の後ろには、屏風を立てていました。
こちらは、お盆の時だけ使う屏風。

位牌棚を見えないように
屏風で囲うお宅もあるそうです。
あの世から来た親と、この世の子が対面し、
話などをするので外から見えるといけないからだと言われています。
われわれが茂さん宅にうかがった時は
送り盆のお昼の食事が供えられていたところでした。
赤飯、味噌汁、煮物、お茶。
ショウロウの葉を落とし作った箸は、十字に挿しています。
この「十字のバッテン」が魔除けになるとの言われも。

茂さんのお宅では、3日間のお供えに、
肉や魚はいっさい使用せず。これも家によって違いますね。
< 13日 迎え盆 >
夕方にお迎え
お茶、お菓子(じょうひ餅)
< 14日 中日 >
朝 : 白ご飯、味噌汁、お漬物、お茶
昼 : そうめん(茹でて浅いお椀に入れて、ダシとネギをかける)、お茶
夜 : お茶を変える
< 15日 送り盆 >
朝 : 白ご飯、漬物、味噌汁(豆腐・ワカメ)、
昼 : 赤飯(お汁粉にすることも)、野菜の煮物(厚揚げ、昆布、冬瓜)、味噌汁
夜 : お昼のものに、揚げ物などおかずを添える
18時すぎに送り
以前は、「七夕大根」と言って、旧暦7月7日七夕に大根の種をまいて、
育った菜っ葉をお味噌汁の具に使っていたそうです。
* *
また昔は型菓子を自宅で作っていて、
まだ木型をお持ちでした。
この木型に、
かし粉、黒糖、ハチミツなど混ぜあわせたものをはめて型菓子を作ります。

「昭和十一年」とあります。
近所などで貸し借りするから名前を明記していたんでしょうね。

茂セツコさんのご実家は、隣の管鈍(くだどん)集落。
旧盆のやりかたは、西古見とだいたい一緒だけど、
送りの日は、なんとお墓で花火をするそうです!
* *
その後、お盆の初日にうかがった濱崎さんのところへも、
ふたたび足を運びました。
14時半ごろでしたが、
送りの夕食を供えていたところ。
赤飯、味噌汁(豆腐、菜っ葉、豚肉)、ニガウリと卵・ツナの炒めもの。
冬瓜と豚肉の煮物、たくあん。

その後、15時半ごろには、送りのお祝いのごちそうが出されました。

位牌棚には、おちょこに焼酎、ビール、スイカなども供えられ、
ご先祖さまをはじめ、亡くなった濱崎さんのご主人もきっと大満足でしょうね。
* *
そうこうしていると、送り盆も終わるころに。
17時ごろから、
ぽつぽつと提灯を手に
墓地へと向かうかたがたの姿が集落内に見えてきました。
家から、ろうそくを灯した提灯でご先祖さまをお伴して、
お墓へとお見送りします。

18時ごろには、
西古見の墓地もかなりのにぎわいが。
濱崎さんも、いらっしゃいました。

提灯もさまざまできれいですね。

「来年もまた来てください」と拝み、
花を新しくし、水やお酒、そしてあの世へのおみやげも供えます。


提灯は、家からお伴してきたものとは別に小さなものをお墓に。
吊り下げる金具がお墓に備え付けてあったり。

竹を使って吊るしたり。

提灯の吊るしかたもいろいろあって興味深いですね。

ご先祖さまへのあの世のおみやげとして
お墓に供えられるのが「ムジノコ」。
団子に、ムジ(里芋)の茎をきざんだものと、米粒を混ぜたもの。

ムジ(里芋)の茎は笹切りにしたり、
お金のように丸く切ったほうがいいと言われる集落、
ムジの葉っぱを下に敷くやり方法も。
米も生米だったり、水でふやかしたり。

その他のおみやげとして、
型菓子や果物もありました。ショウロウ箸も一緒に。

集落も人口が減ってきて、都会で暮らす親戚や近所の人から、
送りを頼まれているかたも多いようです。
1人で1時間以上かけていくつものお墓で、
花を替え、線香をあげて、提灯を立ててと
ていねいに送りをしているかたがいらっしゃいました。

お盆では「迎えは早く、送りは遅く」と言われており、
さらに「他の人よりも遅くお伴するのがよい」と、
暗くなってから送るかたが多かったそう。
集落のかたがたも年配の方が多く、
真っ暗になると墓地では足元が危ないこともあって、
まだ明るいうちに送る人が増えているとのこと。
「昔は、真っ暗な中に提灯の灯りだけがいっぱい浮かんでいて、
そりゃ綺麗だったよー」と、懐かしむ集落のかたの声がありました。
* *
日が暮れ、夜19時半になると、
集落の公民館の広場で、八月踊り。
「♪ ドン、ドン、ドン~、ドン、ドン、ドン~」と、
チヂン(太鼓)の音があたりに鳴り響き、20人近くが集まっていました。
送り盆の夜の八月踊りは、ご先祖さまも踊っているので、
あの世とこの世の踊りの競争です。
老人会長の加(くわえ)さんが先頭になって、
集落のみなさんも輪になって踊ります。

加さんが小さなころは、アハシ(枯れた松)を焚いて、
二重の輪になるほどシマの人たちが集まって踊っていたそう。
「歌詞を間違えると、年配のウジ(おじさん)たちから怒られよったよ」との思い出も。
西古見出身で名瀬在住の方も、
娘さんと息子さん夫婦、お孫を連れて八月踊りに参加。
迎えと、送りの日にシマ(西古見)に来て、八月踊りが終わったら名瀬へ。


お孫さんたちは、花火もやったりして、お盆を楽しんでいました。
自分のルーツとなるシマの暮らしが、
こうやって子どもたちの記憶に刻まれていくのでしょうね。

もちろんこれはかかせません、焼酎のふるまい。

* *
先祖を送った翌日、
旧暦7月16日は、
一年間を通じての最大の”悪日(あくじつ)”。
「海や山へ行ってはいけない」
「仕事はしてはいけない」
「何もしない日」
と言われています。
これは、先祖供養の忌み明けを示すものだそう。
七夕から始まり
旧盆の3日間と続いたにぎやかな島のお盆。
一連の営みが、この旧暦7月16日をもって終わりです。
* *
お話をうかがった濱崎さんが、
「あっという間の3日間だったねぇ・・・」との言葉とともに見せていた表情が印象的でした。
お供えを作るために、
準備から含めると忙しい数日間を過ごし疲れているはずなのに、
ご先祖さまがあの世に戻って行くのがちょっぴりさびしそうにも見えたのです。

旧盆は、一年で一度、ご先祖さまを迎え、
遠くに住んでいる家族も集まって、
親と子のつながりに思いをはせる大事な行事。
そんな大切な時間の合間、
お話をうかがったり、ご先祖さまをお迎えする場所やお墓を見せていただき、
貴重な経験となりました。
時代の変化とともに、
旧盆のしきたりや過ごし方も簡素化や変化はしていますが、
島のご先祖さまや家族を思う気持ちは、
しっかりと受け継がれていることに触れられました。
ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会
・「奄美の暮しと儀礼」 田畑 千秋
2013.08.21 旧盆(送り盆)
瀬戸内町 西古見
奄美.asia / Y.K
ふたたび西古見を訪れました。
「中日(なかび)」と呼ばれる2日目は、
親戚の家や、他の家へ拝みに回ったりします。
西古見で働く古志(こし)在住のかたによると、
古志では、「中戻し(なかもどし)」と言って
窓に提灯をつけておくと、
初日に迎えたご先祖さまが2日目の午後3時ぐらいに
いったんあの世に戻っていくそう。
その後、ふたたび勝手に(!)自分でこの世に戻ってくるとか。
集落によっては、
14日の夕方にいったんお墓に送る集落もかなりあるようです。
その後は15日に、また迎えに行ったり、
自分で戻ってきたりとさまざまな「中戻し」があります。
* *
送り盆の日、
まずお話をうかがったのは、茂(しげる)さんのお宅。
イフェダナ(位牌棚)の後ろには、屏風を立てていました。
こちらは、お盆の時だけ使う屏風。
位牌棚を見えないように
屏風で囲うお宅もあるそうです。
あの世から来た親と、この世の子が対面し、
話などをするので外から見えるといけないからだと言われています。
われわれが茂さん宅にうかがった時は
送り盆のお昼の食事が供えられていたところでした。
赤飯、味噌汁、煮物、お茶。
ショウロウの葉を落とし作った箸は、十字に挿しています。
この「十字のバッテン」が魔除けになるとの言われも。
茂さんのお宅では、3日間のお供えに、
肉や魚はいっさい使用せず。これも家によって違いますね。
< 13日 迎え盆 >
夕方にお迎え
お茶、お菓子(じょうひ餅)
< 14日 中日 >
朝 : 白ご飯、味噌汁、お漬物、お茶
昼 : そうめん(茹でて浅いお椀に入れて、ダシとネギをかける)、お茶
夜 : お茶を変える
< 15日 送り盆 >
朝 : 白ご飯、漬物、味噌汁(豆腐・ワカメ)、
昼 : 赤飯(お汁粉にすることも)、野菜の煮物(厚揚げ、昆布、冬瓜)、味噌汁
夜 : お昼のものに、揚げ物などおかずを添える
18時すぎに送り
以前は、「七夕大根」と言って、旧暦7月7日七夕に大根の種をまいて、
育った菜っ葉をお味噌汁の具に使っていたそうです。
* *
また昔は型菓子を自宅で作っていて、
まだ木型をお持ちでした。
この木型に、
かし粉、黒糖、ハチミツなど混ぜあわせたものをはめて型菓子を作ります。
「昭和十一年」とあります。
近所などで貸し借りするから名前を明記していたんでしょうね。
茂セツコさんのご実家は、隣の管鈍(くだどん)集落。
旧盆のやりかたは、西古見とだいたい一緒だけど、
送りの日は、なんとお墓で花火をするそうです!
* *
その後、お盆の初日にうかがった濱崎さんのところへも、
ふたたび足を運びました。
14時半ごろでしたが、
送りの夕食を供えていたところ。
赤飯、味噌汁(豆腐、菜っ葉、豚肉)、ニガウリと卵・ツナの炒めもの。
冬瓜と豚肉の煮物、たくあん。
その後、15時半ごろには、送りのお祝いのごちそうが出されました。
位牌棚には、おちょこに焼酎、ビール、スイカなども供えられ、
ご先祖さまをはじめ、亡くなった濱崎さんのご主人もきっと大満足でしょうね。
* *
そうこうしていると、送り盆も終わるころに。
17時ごろから、
ぽつぽつと提灯を手に
墓地へと向かうかたがたの姿が集落内に見えてきました。
家から、ろうそくを灯した提灯でご先祖さまをお伴して、
お墓へとお見送りします。
18時ごろには、
西古見の墓地もかなりのにぎわいが。
濱崎さんも、いらっしゃいました。
提灯もさまざまできれいですね。
「来年もまた来てください」と拝み、
花を新しくし、水やお酒、そしてあの世へのおみやげも供えます。
提灯は、家からお伴してきたものとは別に小さなものをお墓に。
吊り下げる金具がお墓に備え付けてあったり。
竹を使って吊るしたり。
提灯の吊るしかたもいろいろあって興味深いですね。
ご先祖さまへのあの世のおみやげとして
お墓に供えられるのが「ムジノコ」。
団子に、ムジ(里芋)の茎をきざんだものと、米粒を混ぜたもの。
ムジ(里芋)の茎は笹切りにしたり、
お金のように丸く切ったほうがいいと言われる集落、
ムジの葉っぱを下に敷くやり方法も。
米も生米だったり、水でふやかしたり。
その他のおみやげとして、
型菓子や果物もありました。ショウロウ箸も一緒に。
集落も人口が減ってきて、都会で暮らす親戚や近所の人から、
送りを頼まれているかたも多いようです。
1人で1時間以上かけていくつものお墓で、
花を替え、線香をあげて、提灯を立ててと
ていねいに送りをしているかたがいらっしゃいました。
お盆では「迎えは早く、送りは遅く」と言われており、
さらに「他の人よりも遅くお伴するのがよい」と、
暗くなってから送るかたが多かったそう。
集落のかたがたも年配の方が多く、
真っ暗になると墓地では足元が危ないこともあって、
まだ明るいうちに送る人が増えているとのこと。
「昔は、真っ暗な中に提灯の灯りだけがいっぱい浮かんでいて、
そりゃ綺麗だったよー」と、懐かしむ集落のかたの声がありました。
* *
日が暮れ、夜19時半になると、
集落の公民館の広場で、八月踊り。
「♪ ドン、ドン、ドン~、ドン、ドン、ドン~」と、
チヂン(太鼓)の音があたりに鳴り響き、20人近くが集まっていました。
送り盆の夜の八月踊りは、ご先祖さまも踊っているので、
あの世とこの世の踊りの競争です。
老人会長の加(くわえ)さんが先頭になって、
集落のみなさんも輪になって踊ります。
加さんが小さなころは、アハシ(枯れた松)を焚いて、
二重の輪になるほどシマの人たちが集まって踊っていたそう。
「歌詞を間違えると、年配のウジ(おじさん)たちから怒られよったよ」との思い出も。
西古見出身で名瀬在住の方も、
娘さんと息子さん夫婦、お孫を連れて八月踊りに参加。
迎えと、送りの日にシマ(西古見)に来て、八月踊りが終わったら名瀬へ。
お孫さんたちは、花火もやったりして、お盆を楽しんでいました。
自分のルーツとなるシマの暮らしが、
こうやって子どもたちの記憶に刻まれていくのでしょうね。
もちろんこれはかかせません、焼酎のふるまい。
* *
先祖を送った翌日、
旧暦7月16日は、
一年間を通じての最大の”悪日(あくじつ)”。
「海や山へ行ってはいけない」
「仕事はしてはいけない」
「何もしない日」
と言われています。
これは、先祖供養の忌み明けを示すものだそう。
七夕から始まり
旧盆の3日間と続いたにぎやかな島のお盆。
一連の営みが、この旧暦7月16日をもって終わりです。
* *
お話をうかがった濱崎さんが、
「あっという間の3日間だったねぇ・・・」との言葉とともに見せていた表情が印象的でした。
お供えを作るために、
準備から含めると忙しい数日間を過ごし疲れているはずなのに、
ご先祖さまがあの世に戻って行くのがちょっぴりさびしそうにも見えたのです。
旧盆は、一年で一度、ご先祖さまを迎え、
遠くに住んでいる家族も集まって、
親と子のつながりに思いをはせる大事な行事。
そんな大切な時間の合間、
お話をうかがったり、ご先祖さまをお迎えする場所やお墓を見せていただき、
貴重な経験となりました。
時代の変化とともに、
旧盆のしきたりや過ごし方も簡素化や変化はしていますが、
島のご先祖さまや家族を思う気持ちは、
しっかりと受け継がれていることに触れられました。
ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会
・「奄美の暮しと儀礼」 田畑 千秋
2013.08.21 旧盆(送り盆)
瀬戸内町 西古見
奄美.asia / Y.K
2013年08月29日
島のお盆(迎え) 西古見
先祖をつねに敬うシマの暮らしのなかで、
家族の行事として
もっとも大切にされているものといえば旧暦のお盆。
旧暦7月7日の七夕から、お盆へとつながっています。
ご先祖さまに目印となるように高く高く七夕飾りを立て、
お墓を掃除したりして、お盆のお迎えの準備。
あの世から戻ってくるのに、7日間かかると言われています。

今年の島のお盆は、旧暦7月13日~15日にあたる、
8月19日~21日。
お盆初日、お墓へ行ってこの世に戻ってきたご先祖をお迎えに。
2日目、3日目と、ずっとごちそうなどでもてなし、
3日目の夕方から夜にかけて、
お墓まで見送りに行くという島のお盆。
昨年は、瀬戸内町の蘇刈(そかる)で初日の迎え盆を見せていただきましたが、
今年は、西古見(にしこみ)を訪れました。

瀬戸内町の中心部・古仁屋から西へ、
車で約1時間ほど行ったところにある西古見。
海からは三連立神が集落を見守り、
美しいサンゴの石垣が続く静かな集落。

午前11時ごろ墓地を訪れると、
ご先祖さまを迎えに来ているかたが、ぞくぞくといらっしゃってました。
墓を掃除し、花を生けて、線香をたてて。
白砂を新しく敷き詰めるかたも。

西古見の墓地は、集落の西側にあり、
ほとんどのお墓が海を眺めるよう、
とても景色のいい場所にあります。
ほかの奄美の集落にあるお墓も、海を眺められるいい場所にあることが多く
こんなロケーションのお墓にいつかは入りたいなぁと思います。

お迎えのなかには西古見出身で名瀬在住のかたの姿も。
車で往復約3時間!
この遠い道のりをご先祖のお迎えに来ることでも、
ご先祖さまを大切にしていることがよく分かります。

お花には、ショウロウ(和名:メドハギ)がかかせません。
茎がしっかりしているので、
葉っぱを落として、料理と一緒にショウロウ箸としても出されます。

お迎えは、七夕飾りを倒してから出かけるそう。
使った竹竿は、送りの日に提灯立てに使ったり、
花を活けたり、線香立てにしたとか。
また西古見では、
「おともをして家につれて来るときには、
後を見たら、精霊ガナシ(先祖)が逃げてしまうので見てはいけない。
より道をしてもいけない」との言い伝えもあります。
* *
その後、どのようにお迎えしているかを見せていただくために
大正5年生まれの濱崎さんのお宅を訪ねました。

濱崎さんは、祖母から「迎えは早く(行き)、送りはゆっくり」と教えられていたそう。
位牌を仏壇から下ろして、
先祖を迎える「イフェダナ(位牌棚)」または「ムケェダナ(迎え棚)」と呼ばれる場所を準備。
ごちそうや果物、お菓子などでもてなします。

私たちがうかがった時は、お迎えしたあと。
位牌の前には、お茶とお菓子が供えられていました。
お菓子は、りゅうび餅と型菓子。
左の花瓶にはショウロウのみ、右は菊と百合。
以前は、提灯もいっぱい並べていたそうですが、
出し入れが大変なため、一つだけ。
* *
お盆のしきたりもシマや家々によってもちろん違いますが、
位牌を出した仏壇は、お盆の3日のあいだ扉を閉じ、
仏壇とは別の部屋に位牌棚を作ったり。
仏壇(あの世)から、位牌棚(この世)へとご先祖さまをきっちりといざない、
この世を楽しんでくださいとの気持ちですね。
* *
濱崎さんのお宅では、
毎年、だいたい以下のような
もてなしの料理をしているそうです。
< 13日 迎え盆 >
午前 : 10時ごろお墓で迎え、お茶とお菓子を供え
夕 : 白ご飯、おかず(海老、椎茸、枝豆、花型の人参、オクラなどのゼリー寄せ、かき揚げ天ぷら、豆腐と野菜の煮物、そうめん)
< 14日 中日 >
朝 : 白ご飯、豆腐の味噌汁、漬物、目玉焼きなど
昼 : そうめん(肉や椎茸をのせる)
夕 : 小豆のご飯、おかず(お煮しめなど)
< 15日 送り盆 >
朝 : 14日と同じ
昼 : ぜんざい
夕 : 午後の早めの時間に夕ごはんになるものを出す。赤飯、味噌汁、野菜の煮物や肉など。
送りのお祝い : 盛皿にごちそうを並べる
これだけ準備するのに、
どれだけの手間暇がかかるのでしょう!
本当に、島のお盆の準備は、。
ご先祖への思いがないとできませんね。
* *
家紋の入った提灯をお持ちでした。
いつもは縁側に吊るしているそう。
今年は吊るすのも難儀だからと出してなかったのですが、
われわれがお手伝いして縁側に。
濱崎さんのところでは、提灯は迎えには使わず、送りの時だけ使用。

「昔からのしきたりはしないとね」と、
8人のご先祖を迎えている濱崎さん。
おひとりで準備されているので、
体力的に大変な部分も年々増えているそう。
ですが、
きっと、ご先祖さまも喜んで
「迎え盆」に、この世にいらっしゃったことと思います。

このあと「送り盆」の日も、
濱崎さんのお宅を訪ねてお話をうかがいました。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会
・「奄美の暮しと儀礼」 田畑 千秋
2013.08.19 瀬戸内町 西古見
奄美.asia / Y.K
家族の行事として
もっとも大切にされているものといえば旧暦のお盆。
旧暦7月7日の七夕から、お盆へとつながっています。
ご先祖さまに目印となるように高く高く七夕飾りを立て、
お墓を掃除したりして、お盆のお迎えの準備。
あの世から戻ってくるのに、7日間かかると言われています。
今年の島のお盆は、旧暦7月13日~15日にあたる、
8月19日~21日。
お盆初日、お墓へ行ってこの世に戻ってきたご先祖をお迎えに。
2日目、3日目と、ずっとごちそうなどでもてなし、
3日目の夕方から夜にかけて、
お墓まで見送りに行くという島のお盆。
昨年は、瀬戸内町の蘇刈(そかる)で初日の迎え盆を見せていただきましたが、
今年は、西古見(にしこみ)を訪れました。
瀬戸内町の中心部・古仁屋から西へ、
車で約1時間ほど行ったところにある西古見。
海からは三連立神が集落を見守り、
美しいサンゴの石垣が続く静かな集落。
午前11時ごろ墓地を訪れると、
ご先祖さまを迎えに来ているかたが、ぞくぞくといらっしゃってました。
墓を掃除し、花を生けて、線香をたてて。
白砂を新しく敷き詰めるかたも。
西古見の墓地は、集落の西側にあり、
ほとんどのお墓が海を眺めるよう、
とても景色のいい場所にあります。
ほかの奄美の集落にあるお墓も、海を眺められるいい場所にあることが多く
こんなロケーションのお墓にいつかは入りたいなぁと思います。
お迎えのなかには西古見出身で名瀬在住のかたの姿も。
車で往復約3時間!
この遠い道のりをご先祖のお迎えに来ることでも、
ご先祖さまを大切にしていることがよく分かります。
お花には、ショウロウ(和名:メドハギ)がかかせません。
茎がしっかりしているので、
葉っぱを落として、料理と一緒にショウロウ箸としても出されます。
お迎えは、七夕飾りを倒してから出かけるそう。
使った竹竿は、送りの日に提灯立てに使ったり、
花を活けたり、線香立てにしたとか。
また西古見では、
「おともをして家につれて来るときには、
後を見たら、精霊ガナシ(先祖)が逃げてしまうので見てはいけない。
より道をしてもいけない」との言い伝えもあります。
* *
その後、どのようにお迎えしているかを見せていただくために
大正5年生まれの濱崎さんのお宅を訪ねました。
濱崎さんは、祖母から「迎えは早く(行き)、送りはゆっくり」と教えられていたそう。
位牌を仏壇から下ろして、
先祖を迎える「イフェダナ(位牌棚)」または「ムケェダナ(迎え棚)」と呼ばれる場所を準備。
ごちそうや果物、お菓子などでもてなします。
私たちがうかがった時は、お迎えしたあと。
位牌の前には、お茶とお菓子が供えられていました。
お菓子は、りゅうび餅と型菓子。
左の花瓶にはショウロウのみ、右は菊と百合。
以前は、提灯もいっぱい並べていたそうですが、
出し入れが大変なため、一つだけ。
* *
お盆のしきたりもシマや家々によってもちろん違いますが、
位牌を出した仏壇は、お盆の3日のあいだ扉を閉じ、
仏壇とは別の部屋に位牌棚を作ったり。
仏壇(あの世)から、位牌棚(この世)へとご先祖さまをきっちりといざない、
この世を楽しんでくださいとの気持ちですね。
* *
濱崎さんのお宅では、
毎年、だいたい以下のような
もてなしの料理をしているそうです。
< 13日 迎え盆 >
午前 : 10時ごろお墓で迎え、お茶とお菓子を供え
夕 : 白ご飯、おかず(海老、椎茸、枝豆、花型の人参、オクラなどのゼリー寄せ、かき揚げ天ぷら、豆腐と野菜の煮物、そうめん)
< 14日 中日 >
朝 : 白ご飯、豆腐の味噌汁、漬物、目玉焼きなど
昼 : そうめん(肉や椎茸をのせる)
夕 : 小豆のご飯、おかず(お煮しめなど)
< 15日 送り盆 >
朝 : 14日と同じ
昼 : ぜんざい
夕 : 午後の早めの時間に夕ごはんになるものを出す。赤飯、味噌汁、野菜の煮物や肉など。
送りのお祝い : 盛皿にごちそうを並べる
これだけ準備するのに、
どれだけの手間暇がかかるのでしょう!
本当に、島のお盆の準備は、。
ご先祖への思いがないとできませんね。
* *
家紋の入った提灯をお持ちでした。
いつもは縁側に吊るしているそう。
今年は吊るすのも難儀だからと出してなかったのですが、
われわれがお手伝いして縁側に。
濱崎さんのところでは、提灯は迎えには使わず、送りの時だけ使用。
「昔からのしきたりはしないとね」と、
8人のご先祖を迎えている濱崎さん。
おひとりで準備されているので、
体力的に大変な部分も年々増えているそう。
ですが、
きっと、ご先祖さまも喜んで
「迎え盆」に、この世にいらっしゃったことと思います。
このあと「送り盆」の日も、
濱崎さんのお宅を訪ねてお話をうかがいました。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会
・「奄美の暮しと儀礼」 田畑 千秋
2013.08.19 瀬戸内町 西古見
奄美.asia / Y.K
2013年08月27日
島のお盆 諸鈍編
平成25年8月19日から21日は、島のお盆でした。
今回は加計呂麻島 諸鈍のお盆を紹介します。
島のお盆は旧暦で行われます。
旧暦 7月13日 ⇒ 迎え盆
7月14日 ⇒ 中日
7月15日 ⇒ 送り盆
そして、シマのお盆は旧暦の7月7日、七夕ともつながりがあります。
迎え盆の1週間前、旧暦7月7日。
七夕の早朝に飾りつけした竹を庭に飾ります。
ご先祖様は七夕飾りめざして帰ってくると言われているので、
ご先祖様に帰る所をわかってもらうように高くあげます。
七夕の日は、なぜか雨が降る事が多いようです。
そして、7月13日の早朝に七夕飾りをおろします。

7月13日前日までに、各家庭ではお盆の準備が行われます。

祭壇には果物や型菓子(ムスコ)やりゅうひ餅などのお菓子、花(ショウロウバナを中心とした)を供えます。
お墓に迎えに行く前に、祭壇にお茶・お水・お酒をお供えします。

昔は、型菓子・りゅうひ餅も各家で作っていました。
ご先祖を迎えて帰って来たら、家族でお茶を飲んだりしていました。
また、他の家に行く時は、お金を包んで持って行くのではなく、りゅうひ餅を2~3升作って箱に入れて持って行ったそうです。
こねればこねるほど日持ちがし、のびも良かった「りゅうひ餅」は、冷蔵庫のない時代、貴重なお菓子でした。
鍋にひっついて残っているのを食べるのが、子ども達の楽しみで、特に 焦げてるところがおいしかったそうです。
【15日のお供え】
①朝 おかいさん・おつゆ・塩・つけもの
②昼 ごはん・おつゆ・煮物・酢のもの
③送りにいく前 餅の吸い物・とうふの吸い物・厚揚げ(刺身)・酢の物

①朝のお供え

③送りに行く前のお供え
お向かいの家の様子も見てきました。

ここの家では、13日はお供えをしなくて、14日と15日の2日間 お供えを出してました。
(お箸はバッテンして器に置いていました⇒実家の安脚場では、ご飯に刺すそうです)
【15日のお供え】
① 朝 おかいさん・みそ汁・塩・つけもの
② 昼 おかいさん・みそ汁・かぼちゃの煮物・つけもの

②昼のお供え
お盆に取り行われる様式は各家庭でそれぞれ違い、また、お姑さんからお嫁さんに引き継ぐ時に、簡素化されていっているようです。
型菓子は自分で作られていました。緑色は青汁を入れたとのこと。

お向かいさんから聞いた話によると、
実家の安脚場集落では、もう一つテーブルを出してお供えが山盛りだったようです。
(お供えの品)
・皮ピーナツをゆがいたもの
・天ぷら
・あばら
・里芋の煮付け・塩煮 など
お供えが山盛りなのは、
お供えとお参りに来てくれたお客さんに出すのと兼ねてたのでは? という事でした。
送り盆は、家から提灯を持ってお墓に行き、親戚などのお墓にもお参りします。

親戚の墓もお参りするので、線香もたくさん必要です。
いっぺんにたくさんの線香に火をつけるのは難しい~(>_<)

この時、お墓に活けていたショウロウバナは取るそうです。(写真はショウロウバナを取った後)
祭壇で飾ってあった、ショウロウバナ

※長い緑色のものが、ショウロウバナ(メドハギ)です。
昭和31年頃までの諸鈍では、15日の晩、地区ごとに分かれて、子ども達は踊ったり、各家庭をまわってお菓子(型菓子やりゅうひ餅)をもらうムチムレ行事があったそうです。
★私の素朴な疑問
何で16日は仕事したらいけない日なのでしょうか?
誰か教えてください。
★今回見つけた、おもしろいもの

よく見たら、お水を備えてる湯のみは1981年!!(写真)
しかも、加藤百貨店の文字が…(写真)

お盆がいつから続いてるのかなぁと調べてみると、
『瀬戸内町の文化財をたずねて』に「昭和に入ってから島に広まった行事のようである。」と書かれていました。

私の故郷、大阪ではお盆といっても特に何をするわけでもないので、島で毎年先祖を祭るのはすばらしい習慣だと思います。
これからも、ずっと続いていって欲しいです。
130821 加計呂麻島 諸鈍
調査員 NORi
参考文献『瀬戸内町の文化財を訪ねて』
今回は加計呂麻島 諸鈍のお盆を紹介します。
島のお盆は旧暦で行われます。
旧暦 7月13日 ⇒ 迎え盆
7月14日 ⇒ 中日
7月15日 ⇒ 送り盆
そして、シマのお盆は旧暦の7月7日、七夕ともつながりがあります。
迎え盆の1週間前、旧暦7月7日。
七夕の早朝に飾りつけした竹を庭に飾ります。
ご先祖様は七夕飾りめざして帰ってくると言われているので、
ご先祖様に帰る所をわかってもらうように高くあげます。
七夕の日は、なぜか雨が降る事が多いようです。
そして、7月13日の早朝に七夕飾りをおろします。

7月13日前日までに、各家庭ではお盆の準備が行われます。

祭壇には果物や型菓子(ムスコ)やりゅうひ餅などのお菓子、花(ショウロウバナを中心とした)を供えます。
お墓に迎えに行く前に、祭壇にお茶・お水・お酒をお供えします。

昔は、型菓子・りゅうひ餅も各家で作っていました。
ご先祖を迎えて帰って来たら、家族でお茶を飲んだりしていました。
また、他の家に行く時は、お金を包んで持って行くのではなく、りゅうひ餅を2~3升作って箱に入れて持って行ったそうです。
こねればこねるほど日持ちがし、のびも良かった「りゅうひ餅」は、冷蔵庫のない時代、貴重なお菓子でした。
鍋にひっついて残っているのを食べるのが、子ども達の楽しみで、特に 焦げてるところがおいしかったそうです。
【15日のお供え】
①朝 おかいさん・おつゆ・塩・つけもの
②昼 ごはん・おつゆ・煮物・酢のもの
③送りにいく前 餅の吸い物・とうふの吸い物・厚揚げ(刺身)・酢の物

①朝のお供え

③送りに行く前のお供え
お向かいの家の様子も見てきました。

ここの家では、13日はお供えをしなくて、14日と15日の2日間 お供えを出してました。
(お箸はバッテンして器に置いていました⇒実家の安脚場では、ご飯に刺すそうです)
【15日のお供え】
① 朝 おかいさん・みそ汁・塩・つけもの
② 昼 おかいさん・みそ汁・かぼちゃの煮物・つけもの

②昼のお供え
お盆に取り行われる様式は各家庭でそれぞれ違い、また、お姑さんからお嫁さんに引き継ぐ時に、簡素化されていっているようです。
型菓子は自分で作られていました。緑色は青汁を入れたとのこと。

お向かいさんから聞いた話によると、
実家の安脚場集落では、もう一つテーブルを出してお供えが山盛りだったようです。
(お供えの品)
・皮ピーナツをゆがいたもの
・天ぷら
・あばら
・里芋の煮付け・塩煮 など
お供えが山盛りなのは、
お供えとお参りに来てくれたお客さんに出すのと兼ねてたのでは? という事でした。
送り盆は、家から提灯を持ってお墓に行き、親戚などのお墓にもお参りします。

親戚の墓もお参りするので、線香もたくさん必要です。
いっぺんにたくさんの線香に火をつけるのは難しい~(>_<)

この時、お墓に活けていたショウロウバナは取るそうです。(写真はショウロウバナを取った後)
祭壇で飾ってあった、ショウロウバナ

※長い緑色のものが、ショウロウバナ(メドハギ)です。
昭和31年頃までの諸鈍では、15日の晩、地区ごとに分かれて、子ども達は踊ったり、各家庭をまわってお菓子(型菓子やりゅうひ餅)をもらうムチムレ行事があったそうです。
★私の素朴な疑問
何で16日は仕事したらいけない日なのでしょうか?
誰か教えてください。
★今回見つけた、おもしろいもの

よく見たら、お水を備えてる湯のみは1981年!!(写真)
しかも、加藤百貨店の文字が…(写真)

お盆がいつから続いてるのかなぁと調べてみると、
『瀬戸内町の文化財をたずねて』に「昭和に入ってから島に広まった行事のようである。」と書かれていました。

私の故郷、大阪ではお盆といっても特に何をするわけでもないので、島で毎年先祖を祭るのはすばらしい習慣だと思います。
これからも、ずっと続いていって欲しいです。
130821 加計呂麻島 諸鈍
調査員 NORi
参考文献『瀬戸内町の文化財を訪ねて』
2013年08月26日
隊長鼎のつれづれ夏休み絵日記 ~海峡ブルー~
夏休みももうすぐ終わりですね。
あせって、夏休みの宿題をかたずけるタイプだった、隊長 鼎ですが
夏休み最初の方の日記(ブログ)をつけてないので、アップしたいと思います。
この夏は、異常な天気に恵まれ?一か月以上もまともな雨が降りませんでしたね…
そんな、視界良好な7月19日の大島海峡です。
高地山の展望台から、大島海峡と古仁屋です。

古仁屋と海で、ちょっとハートっぽいように見えるのは、隊長だけでしょうか?

↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
大島海峡の西側も綺麗に見えます。

大島海峡を隔てて、加計呂麻島、請島、与路島が見えます。
徳之島もはっきり見えます。
ここに登ると、
昔の人は、こんないい天気の日に、隣の島を目指して旅をしていたんだろうなぁ!
と思います。
地図では、感じることのできないことですよね!
研究する時も、この実感を忘れないようにしたいです。
番外編
こんなにくっきり、横当島!!

こんなにくっきりは、生まれて初めてでした。
130719 瀬戸内町 大島海峡 他
S.B.I 隊長 鼎
あせって、夏休みの宿題をかたずけるタイプだった、隊長 鼎ですが
夏休み最初の方の日記(ブログ)をつけてないので、アップしたいと思います。
この夏は、異常な天気に恵まれ?一か月以上もまともな雨が降りませんでしたね…
そんな、視界良好な7月19日の大島海峡です。
高地山の展望台から、大島海峡と古仁屋です。
古仁屋と海で、ちょっとハートっぽいように見えるのは、隊長だけでしょうか?
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
大島海峡の西側も綺麗に見えます。
大島海峡を隔てて、加計呂麻島、請島、与路島が見えます。
徳之島もはっきり見えます。
ここに登ると、
昔の人は、こんないい天気の日に、隣の島を目指して旅をしていたんだろうなぁ!
と思います。
地図では、感じることのできないことですよね!
研究する時も、この実感を忘れないようにしたいです。
番外編
こんなにくっきり、横当島!!
こんなにくっきりは、生まれて初めてでした。
130719 瀬戸内町 大島海峡 他
S.B.I 隊長 鼎
2013年08月18日
油井の稲作 縄作り編
平成25年8月4日。
油井集落では、稲の脱穀作業が行われました。
体育館の中では、脱穀機や唐箕、サンバラという農具を使い、
皆さんが額に汗して作業に励んでいました。

脱穀後の藁をひとまとまりにまとめます。
藁が集まるのを待ちつつ、一休み。
一方、体育館の外では・・・

シマの大先輩達が藁で縄を綯(な)っていました!
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
「どうして、縄を綯っているのだろう?」と思いつつも、
その手から生み出される縄の美しさに、思わず見入ってしまいました。

縄は2本綯って縛り、1本にしていきます。

先輩の巧みな技を見つめていた彼。

先輩の縄を引き継いで、縄綯いに挑戦です。
やっぱり「習うより慣れろ」ですね。
そして、
出来上がった縄は体育館に運ばれます。
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
縄は藁束を縛るため、作られていたんですね。
縛り方にもコツがあるようです。
脱穀された籾は米袋に入れられ、藁束と一緒に集落の公民館に運ばれます。
1袋、約20キロ。
今年は、約80キロの収穫でした!

藁は油井集落の豊年祭(9月19日(木))に、
籾は精米後、油井小中学校の学校行事(餅つき大会)に使われるそうです。
油井集落の稲作は、豊年祭で使う藁を作るために行われています。
稲作がほとんど無くなってしまった奄美。
祭りで重要な意味を持つ藁縄を、その材料から育て、作る。
そこには、シマの人たちの祭りにかける強い「ウムイ(思い)」を感じずにはいられません。
シマで技術力があることを「ティディがある」と言います。
おじいちゃんおばあちゃん世代から孫の世代へ。
油井集落では稲作に関わる「ティディ」と、稲作と祭りへの「ウムイ」を、
確実に伝承していくのだな、と今回の取材を通して痛感しました。
ご協力いただいた、油井集落の皆さん。
そして、油井小中学校の先生、児童・生徒、保護者の皆さん。
本当にありがとうございました。
奄美.asia Satsuki.K
2013.8.17(日)
瀬戸内町 油井 須佐礼
油井集落では、稲の脱穀作業が行われました。
体育館の中では、脱穀機や唐箕、サンバラという農具を使い、
皆さんが額に汗して作業に励んでいました。
脱穀後の藁をひとまとまりにまとめます。
藁が集まるのを待ちつつ、一休み。
一方、体育館の外では・・・
シマの大先輩達が藁で縄を綯(な)っていました!
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
「どうして、縄を綯っているのだろう?」と思いつつも、
その手から生み出される縄の美しさに、思わず見入ってしまいました。
縄は2本綯って縛り、1本にしていきます。
先輩の巧みな技を見つめていた彼。
先輩の縄を引き継いで、縄綯いに挑戦です。
やっぱり「習うより慣れろ」ですね。
そして、
出来上がった縄は体育館に運ばれます。
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
縄は藁束を縛るため、作られていたんですね。
縛り方にもコツがあるようです。
脱穀された籾は米袋に入れられ、藁束と一緒に集落の公民館に運ばれます。
1袋、約20キロ。
今年は、約80キロの収穫でした!
藁は油井集落の豊年祭(9月19日(木))に、
籾は精米後、油井小中学校の学校行事(餅つき大会)に使われるそうです。
油井集落の稲作は、豊年祭で使う藁を作るために行われています。
稲作がほとんど無くなってしまった奄美。
祭りで重要な意味を持つ藁縄を、その材料から育て、作る。
そこには、シマの人たちの祭りにかける強い「ウムイ(思い)」を感じずにはいられません。
シマで技術力があることを「ティディがある」と言います。
おじいちゃんおばあちゃん世代から孫の世代へ。
油井集落では稲作に関わる「ティディ」と、稲作と祭りへの「ウムイ」を、
確実に伝承していくのだな、と今回の取材を通して痛感しました。
ご協力いただいた、油井集落の皆さん。
そして、油井小中学校の先生、児童・生徒、保護者の皆さん。
本当にありがとうございました。
奄美.asia Satsuki.K
2013.8.17(日)
瀬戸内町 油井 須佐礼
2013年08月15日
油井の稲作 唐箕編
平成25年8月4日。
油井集落で行われた稲の脱穀作業。
今回は脱穀作業のその後について。

脱穀機で脱穀された籾。
その籾をタライに掻き集めていきます。

集められた籾には、藁がまだまだたくさんついています。
次はその藁を取り除く作業。
思い思いの話をしつつも、手の動きは止まりませんよ~。

そして、いよいよ「唐箕(トウミ)」の出番!
唐箕は脱穀後の籾や藁屑を、風によって選別する道具です。
大まかに藁が取り除かれた籾を、唐箕にかけていきます。

唐箕を上から見ると、四角の口がぱっくり開いていますね。
この部分を漏斗(ろうと)といい、ここから少しずつ藁屑のついた籾を下へ落としていきます。
写真奥側にハンドルがあり、そのハンドルを回すと内蔵された歯車が回ります。
すると風がおこって、落下してきた籾や葉屑が重さによって選別されるという仕組み。

藁屑や茎を一本ずつ取り除いていきます。
根気のいる作業ですね。
この竹で編まれたザルは「サンバラ」と言います。
浅いザルなので、穀物などを干す以外に、選別作業などにも利用するそうです。
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
葉っぱが取り除かれた籾を、もう一度、唐箕にかけます。
唐箕には漏斗の真下に、2本の樋(ひ)があります。
この樋を通って、風によって選別された籾や藁屑が外に取り出されます。
向かって右の樋から、籾(食用米)が出てきます。
向かって左の樋からは、食用にならない屑米、いわゆる不完全米が出てくるそうです。
そして、中央からは籾殻や葉屑などが、風にのって吹き飛ばされてきます。
「僕がやる!」

↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
精一杯の力を込めて、ハンドルを回しています。
やっとハンドル回せて良かったね。
(彼は会場設営の時から、唐箕の前に陣取っていたのです・・・)

そして、唐箕で取り除けなかった茎は、また手作業で取り除きます。
「あげ~、取れんば(茎から籾が)。誰かビール瓶持ってきて!」
の一声に、運動会競技用のビール瓶が運ばれてきました。
何をするのか、見ていると・・・
ブルーシートに広げた茎付き籾をたたき始めました!
こうして叩くと、籾が茎から取れるそう!
叩き過ぎると米が割れてしまうので、叩く時の力加減が大事とのことでした。

そして、最終選別。
サンバラに籾を入れて、左右にサンバラをゆすります。
こうすると、小さな茎や藁屑が籾の上の方に集まってきて、取り除きやすくなります。
ザッザッザッザッ ――(茎や藁屑を取る)――
ザッザッザッザッ――(茎や藁屑を取る)――
ご婦人方の手元から、リズミカルな音が響きます。

選別が終わった籾は、米袋の中へ。
これで、脱穀作業は終了です。

ちびっ子たちも汗だくになって、がんばっていました。
皆さん、本当にお疲れ様でした。
奄美.asia Satsuki.K
2013.8.4(日)
瀬戸内町 油井 須佐礼
油井集落で行われた稲の脱穀作業。
今回は脱穀作業のその後について。
脱穀機で脱穀された籾。
その籾をタライに掻き集めていきます。
集められた籾には、藁がまだまだたくさんついています。
次はその藁を取り除く作業。
思い思いの話をしつつも、手の動きは止まりませんよ~。
そして、いよいよ「唐箕(トウミ)」の出番!
唐箕は脱穀後の籾や藁屑を、風によって選別する道具です。
大まかに藁が取り除かれた籾を、唐箕にかけていきます。
唐箕を上から見ると、四角の口がぱっくり開いていますね。
この部分を漏斗(ろうと)といい、ここから少しずつ藁屑のついた籾を下へ落としていきます。
写真奥側にハンドルがあり、そのハンドルを回すと内蔵された歯車が回ります。
すると風がおこって、落下してきた籾や葉屑が重さによって選別されるという仕組み。
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
唐箕にかけられた籾を、また選別していきます。藁屑や茎を一本ずつ取り除いていきます。
根気のいる作業ですね。
この竹で編まれたザルは「サンバラ」と言います。
浅いザルなので、穀物などを干す以外に、選別作業などにも利用するそうです。
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
葉っぱが取り除かれた籾を、もう一度、唐箕にかけます。
唐箕には漏斗の真下に、2本の樋(ひ)があります。
この樋を通って、風によって選別された籾や藁屑が外に取り出されます。
向かって右の樋から、籾(食用米)が出てきます。
向かって左の樋からは、食用にならない屑米、いわゆる不完全米が出てくるそうです。
そして、中央からは籾殻や葉屑などが、風にのって吹き飛ばされてきます。
「僕がやる!」
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
精一杯の力を込めて、ハンドルを回しています。
やっとハンドル回せて良かったね。
(彼は会場設営の時から、唐箕の前に陣取っていたのです・・・)
↑↑ 動画は、写真をクリック ↑↑
そして、唐箕で取り除けなかった茎は、また手作業で取り除きます。
「あげ~、取れんば(茎から籾が)。誰かビール瓶持ってきて!」
の一声に、運動会競技用のビール瓶が運ばれてきました。
何をするのか、見ていると・・・
ブルーシートに広げた茎付き籾をたたき始めました!
こうして叩くと、籾が茎から取れるそう!
叩き過ぎると米が割れてしまうので、叩く時の力加減が大事とのことでした。
そして、最終選別。
サンバラに籾を入れて、左右にサンバラをゆすります。
こうすると、小さな茎や藁屑が籾の上の方に集まってきて、取り除きやすくなります。
ザッザッザッザッ ――(茎や藁屑を取る)――
ザッザッザッザッ――(茎や藁屑を取る)――
ご婦人方の手元から、リズミカルな音が響きます。
選別が終わった籾は、米袋の中へ。
これで、脱穀作業は終了です。
ちびっ子たちも汗だくになって、がんばっていました。
皆さん、本当にお疲れ様でした。
奄美.asia Satsuki.K
2013.8.4(日)
瀬戸内町 油井 須佐礼