2013年09月26日
ブログランキング一位!!
奄美新聞記者が選ぶブログランキング!
平成25年8月ランキング!
あまみヒギャジマンプロジェクトが一位に輝きました!!
http://amaminews.amamin.jp/e382106.html
大変、遅くなりましたが、ありがとうございました。
なお、「あまみヒギャジマンブログ」ですが、
ついに画像容量が一杯になってしまいました…
写真を削除するのが忍びないので…
フォト蔵を使用して作成していくことにしました。
移行期間の間、更新が少なくなると思います。
また、画面上も見づらくなるかもしれません。
ご了承くださいm( _ _ )m
今後も、シマの宝を発見して、皆様にお届けしますので、
よろしくお願いいたします!!

S.B.I 隊長鼎
平成25年8月ランキング!
あまみヒギャジマンプロジェクトが一位に輝きました!!
http://amaminews.amamin.jp/e382106.html
大変、遅くなりましたが、ありがとうございました。
なお、「あまみヒギャジマンブログ」ですが、
ついに画像容量が一杯になってしまいました…
写真を削除するのが忍びないので…
フォト蔵を使用して作成していくことにしました。
移行期間の間、更新が少なくなると思います。
また、画面上も見づらくなるかもしれません。
ご了承くださいm( _ _ )m
今後も、シマの宝を発見して、皆様にお届けしますので、
よろしくお願いいたします!!
S.B.I 隊長鼎
2013年09月22日
講座開催のお知らせ!!
平成25年9月29(日) 瀬戸内町立図書館・郷土館にて、
動物病院の先生がやって来た! を開催いたします。
獣医師の先生に、傷ついた動物の対応を教えていただきます。
野生生物の生態を知る良い機会ですので、ぜひ親子でご参加ください。
なお、申込締切 が、26日(木) となっておりますので、参加ご希望の方は、お早めにお申し込みください。
※くわしくは、 チラシ をご覧ください。
↓↓↓
動物病院の先生がやって来た! を開催いたします。
獣医師の先生に、傷ついた動物の対応を教えていただきます。
野生生物の生態を知る良い機会ですので、ぜひ親子でご参加ください。
なお、申込締切 が、26日(木) となっておりますので、参加ご希望の方は、お早めにお申し込みください。
※くわしくは、 チラシ をご覧ください。
↓↓↓

2013年09月16日
「与路島」豊年祭・敬老祝賀会
旧暦8月に入り、
瀬戸内町は豊年祭シーズンを迎えています。
9月8日(日)、
与路島の与路(よろ)集落で
豊年祭ならびに敬老祝賀会が開催されました。

豊年祭は、もともとシマの人々の無病息災や五穀豊穣を祈願するもの。
一年の疲れを癒やすための最大の娯楽だったと言われます。
今では敬老会を兼ねるところが多く、
年中行事の中でもシマ(集落)が最もにぎわう日。
与路では、以前は豊年祭を旧暦8月15日に必ず開催していましたが、
島外在住の出身者や関係者が足を運びやすいよう
平日に当たる場合は、
旧暦8月15日より前の日曜日に設定しています。
昨年の豊年祭は、残念ながら台風のために中止でした。
今年は、台風が来て延期してもいいように、
かなり早めの日にちにしたそうです。
みんなの願いが届いたのか、今年は快晴!

与路島は、人口96名、世帯数56戸(2013年8月末現在)。
島に集落は、
与路集落がひとつ。
学校は、与路小中学校があり、
現在は、小学校4名・中学校3名、
教職員8名が在籍しています。
* *
準備も整い、
いつもは静かな集落の
にぎやかな一日の始まりです。

豊年祭を楽しみに
与路島外に住んでいる出身者や関係者が数多く帰省してきます。
彼らを運ぶのが、
奄美大島本島と、与路島を結ぶ「定期船せとなみ」。
同じ瀬戸内町内ながら、
奄美大島本島の古仁屋港からお隣の請島を経由して、
約1時間半かかって与路島に到着。
この日も、様々な方が
定期船せとなみに乗ってやってきました。
与路島に、旅人がやってきた時の対応にこんな言葉があるそうです。
「ユルッチュヤ オーレ オーレ」
意味 : 与路の人は、「来いよ、来いよ」と歓迎してくれる
そんな言葉どおり、
「オーレ、オーレ~~!」と、
集落のみなさんが、チヂン(太鼓)やハト笛とともに、
下船してくる人々を踊って歓迎します。

下船してくる方々も、みなさん笑顔!
シマに戻ってきた喜びを、
手踊りで陽気に応えます。

12時になり、
いよいよ豊年祭ならびに敬老会の開始。
まずは、開会式です。
国旗掲揚や来賓の祝辞、敬老会代表の謝辞などがあり、
その後、余興に入っていきます。
今年の敬老者は27名。そのうち出席者は10数名。
敬老者に楽しんでもらおうと、
様々な余興が準備されています。

祭りの中心となるのが土俵。
この軍配の回りにある4つの柱は、
「イビガナシ」をあらわしているそう。
「イビガナシ」は、
瀬戸内町方面で、シマをたてた守り神と言われています。
与路では、イビガナシをお供して
一緒に豊年祭を行なうという意味があるそうです。
* *
青壮年団による力強い「振り出し」。
厳かに儀式は、はじまります。
ほら貝を吹き鳴らし、
「ヨイヤー、ヨイヤー」のかけ声とともに入場。
塩で土俵まわりを清めていきます。

それに続く2人が担いでいるのは、焼酎甕。
現在では、この焼酎甕には焼酎の2合瓶が入っており、
敬老者などに振る舞われていました。

奄美が本土復帰(昭和28年)ごろまで、
この焼酎甕を豊年祭前日に青年団が担いで、
集落の各戸で焼酎をもらってまわっていました。。
一戸あたり一合ずつ提供する決まりになっており、
翌朝から自由に飲まれ、行事が終わって打ち上げの宴会が終わる頃に
ちょうどすべて飲み干される分量になっていたそうです。
また以前、与路島では、
豊年祭当日に「い草」を床の間や仏壇にいける習慣があったそうですよ。
土俵入り

土俵入りのあとの相撲は、
前相撲、青壮年相撲、個人戦相撲優勝戦、結び相撲と続きます。
「ヨイヤー、ヨイヤー、サッ」
気合が入ります。

相撲は、ちびっ子同士、親子対決などもあったり。

さまざまな取り組みに、会場のみなさんが盛り上がりました。

この一年に産まれた新生児の「土俵入り」もありました。
赤ちゃんの足を土俵の砂につけて、健やかな成長を祈ります。
大島紬の化粧まわしもステキですね。
土俵の上では泣いて会場を沸かせていましたが、
終わった後はこの「どーだ!」と言わんばかりの表情。大物の予感です。

婦人会による余興も。

踊りの練習をし、また準備や接待で大忙しの婦人会のみなさん。
この日を無事に迎えてホッとひと安心だと思います。

敬老のみなさんも楽しんでくださっていてなにより。

飛び入り参加では、名瀬や古仁屋在住の与路会のみなさんが、
奄美群島本土復帰60周年を記念して踊りを披露。

その後は、会場総出、
土俵の回りにぐるりと輪になって八月踊りです。


みなさんの唄と踊りの素晴らしいこと!

唄える人が少なくなってきて、
伝統の継承が難しくなりつつある集落もあります。
与路の八月踊り保存会は昭和16年に発足。
集落区長の保島さんは、「当時の人たちが30人以上育っていて、
唄える人が数多くいるので当分大丈夫」とおっしゃっていたのがよく分かります。


そして相撲の個人戦優勝戦などがあり、
閉会式を経て、
無事に「与路地区 豊年祭ならびに敬老祝賀会」は終わりました。
**
島にたくさんやってきた人々も、
そろそろお別れの時間。
16時には、古仁屋港に向けて、
定期船せとなみが出港します。
ここでも集落の方々が、最後の見送り。

帰る人々も甲板に出て、手を振りながら別れを惜しみます。

「またオーレよ~~~!」。

みなさん、せとなみが見えなくなるまで、お見送り。

にぎわっていた島に、
また静かな時間が戻りました。
* *
与路では、「食べてるねー?」「飲んでるねー?」、
「与路に来て、お腹すかせて帰ったらいかんよー」と、
みなさんに気にかけていただき、
とても楽しい時間を過ごせました。
ちなみに、与路小中学校の運動会は、
9月22日(日)です!
与路島のみなさん、
いろいろとご協力していただき、本当に感謝いたします。
ありがとうございました!
< 参考文献 >
・ 「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・ 「与路島誌」 屋崎 一
・ 「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第3・4号」 『与路島ノート 1・2』 町健次郎
・ 「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第2号」 『請島ノート』 町健次郎
2013.09.08
瀬戸内町 与路島 与路
奄美.asia / Y.K
瀬戸内町は豊年祭シーズンを迎えています。
9月8日(日)、
与路島の与路(よろ)集落で
豊年祭ならびに敬老祝賀会が開催されました。
豊年祭は、もともとシマの人々の無病息災や五穀豊穣を祈願するもの。
一年の疲れを癒やすための最大の娯楽だったと言われます。
今では敬老会を兼ねるところが多く、
年中行事の中でもシマ(集落)が最もにぎわう日。
与路では、以前は豊年祭を旧暦8月15日に必ず開催していましたが、
島外在住の出身者や関係者が足を運びやすいよう
平日に当たる場合は、
旧暦8月15日より前の日曜日に設定しています。
昨年の豊年祭は、残念ながら台風のために中止でした。
今年は、台風が来て延期してもいいように、
かなり早めの日にちにしたそうです。
みんなの願いが届いたのか、今年は快晴!
与路島は、人口96名、世帯数56戸(2013年8月末現在)。
島に集落は、
与路集落がひとつ。
学校は、与路小中学校があり、
現在は、小学校4名・中学校3名、
教職員8名が在籍しています。
* *
準備も整い、
いつもは静かな集落の
にぎやかな一日の始まりです。
豊年祭を楽しみに
与路島外に住んでいる出身者や関係者が数多く帰省してきます。
彼らを運ぶのが、
奄美大島本島と、与路島を結ぶ「定期船せとなみ」。
同じ瀬戸内町内ながら、
奄美大島本島の古仁屋港からお隣の請島を経由して、
約1時間半かかって与路島に到着。
この日も、様々な方が
定期船せとなみに乗ってやってきました。
与路島に、旅人がやってきた時の対応にこんな言葉があるそうです。
「ユルッチュヤ オーレ オーレ」
意味 : 与路の人は、「来いよ、来いよ」と歓迎してくれる
そんな言葉どおり、
「オーレ、オーレ~~!」と、
集落のみなさんが、チヂン(太鼓)やハト笛とともに、
下船してくる人々を踊って歓迎します。
下船してくる方々も、みなさん笑顔!
シマに戻ってきた喜びを、
手踊りで陽気に応えます。
12時になり、
いよいよ豊年祭ならびに敬老会の開始。
まずは、開会式です。
国旗掲揚や来賓の祝辞、敬老会代表の謝辞などがあり、
その後、余興に入っていきます。
今年の敬老者は27名。そのうち出席者は10数名。
敬老者に楽しんでもらおうと、
様々な余興が準備されています。
祭りの中心となるのが土俵。
この軍配の回りにある4つの柱は、
「イビガナシ」をあらわしているそう。
「イビガナシ」は、
瀬戸内町方面で、シマをたてた守り神と言われています。
与路では、イビガナシをお供して
一緒に豊年祭を行なうという意味があるそうです。
* *
青壮年団による力強い「振り出し」。
厳かに儀式は、はじまります。
ほら貝を吹き鳴らし、
「ヨイヤー、ヨイヤー」のかけ声とともに入場。
塩で土俵まわりを清めていきます。
それに続く2人が担いでいるのは、焼酎甕。
現在では、この焼酎甕には焼酎の2合瓶が入っており、
敬老者などに振る舞われていました。
奄美が本土復帰(昭和28年)ごろまで、
この焼酎甕を豊年祭前日に青年団が担いで、
集落の各戸で焼酎をもらってまわっていました。。
一戸あたり一合ずつ提供する決まりになっており、
翌朝から自由に飲まれ、行事が終わって打ち上げの宴会が終わる頃に
ちょうどすべて飲み干される分量になっていたそうです。
また以前、与路島では、
豊年祭当日に「い草」を床の間や仏壇にいける習慣があったそうですよ。
土俵入り
土俵入りのあとの相撲は、
前相撲、青壮年相撲、個人戦相撲優勝戦、結び相撲と続きます。
「ヨイヤー、ヨイヤー、サッ」
気合が入ります。
相撲は、ちびっ子同士、親子対決などもあったり。
さまざまな取り組みに、会場のみなさんが盛り上がりました。
この一年に産まれた新生児の「土俵入り」もありました。
赤ちゃんの足を土俵の砂につけて、健やかな成長を祈ります。
大島紬の化粧まわしもステキですね。
土俵の上では泣いて会場を沸かせていましたが、
終わった後はこの「どーだ!」と言わんばかりの表情。大物の予感です。
婦人会による余興も。
踊りの練習をし、また準備や接待で大忙しの婦人会のみなさん。
この日を無事に迎えてホッとひと安心だと思います。
敬老のみなさんも楽しんでくださっていてなにより。
飛び入り参加では、名瀬や古仁屋在住の与路会のみなさんが、
奄美群島本土復帰60周年を記念して踊りを披露。
その後は、会場総出、
土俵の回りにぐるりと輪になって八月踊りです。
みなさんの唄と踊りの素晴らしいこと!
唄える人が少なくなってきて、
伝統の継承が難しくなりつつある集落もあります。
与路の八月踊り保存会は昭和16年に発足。
集落区長の保島さんは、「当時の人たちが30人以上育っていて、
唄える人が数多くいるので当分大丈夫」とおっしゃっていたのがよく分かります。
そして相撲の個人戦優勝戦などがあり、
閉会式を経て、
無事に「与路地区 豊年祭ならびに敬老祝賀会」は終わりました。
**
島にたくさんやってきた人々も、
そろそろお別れの時間。
16時には、古仁屋港に向けて、
定期船せとなみが出港します。
ここでも集落の方々が、最後の見送り。
帰る人々も甲板に出て、手を振りながら別れを惜しみます。
「またオーレよ~~~!」。
みなさん、せとなみが見えなくなるまで、お見送り。
にぎわっていた島に、
また静かな時間が戻りました。
* *
与路では、「食べてるねー?」「飲んでるねー?」、
「与路に来て、お腹すかせて帰ったらいかんよー」と、
みなさんに気にかけていただき、
とても楽しい時間を過ごせました。
ちなみに、与路小中学校の運動会は、
9月22日(日)です!
与路島のみなさん、
いろいろとご協力していただき、本当に感謝いたします。
ありがとうございました!
< 参考文献 >
・ 「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・ 「与路島誌」 屋崎 一
・ 「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第3・4号」 『与路島ノート 1・2』 町健次郎
・ 「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第2号」 『請島ノート』 町健次郎
2013.09.08
瀬戸内町 与路島 与路
奄美.asia / Y.K
2013年09月10日
芭蕉の「芯止め」
糸芭蕉の葉や芯を切り落とす
「芯止め」という作業を行ないました。
瀬戸内町文化遺産活用実行委員会では、
11月末ごろに、伝統文化親子体験教室事業として
「芭蕉の糸づくり・織り」体験を予定しています。

3月に行った「芭蕉の糸づくり」の様子は、
こちらの記事をごらんください→☆
糸芭蕉の木からとり出した繊維で
糸を紡いで織る芭蕉布。
芭蕉布は、奄美群島において重要な伝統工芸であり、
とくに江戸期には瀬戸内町の特産品でしたが、現在では衰退しています。
そのため瀬戸内町文化遺産活用実行委員会では、
地域の子供たちに伝統文化を理解し、
その継承と復興につながるきっかけにしてもらいたいと、
親子を対象とした体験学習教室を計画しているところです。
* *
今回の「芯止め」は、
その体験教室で使う材料となる糸芭蕉の
手入れの一つとして重要な作業。
瀬戸内町文化遺産活用実行委員会のメンバーと、
芭蕉布を復活させたいと願う有志が、
町内某所に集まりました。

「芯止め」は、背丈の伸びた芭蕉の葉と幹の上部を切り落として、
栄養が葉っぱに行かないようにし、
根と先の太さを均一にするための作業。
繊維を柔らかくする目的もあります。
夏の間に、「芯止め」を2~3回行ない、
冬に芭蕉を倒して、糸を取り出していきます。
【 芭蕉 芯止めビフォー 】

芭蕉とガジュマルがならび、まるでジャングルのようです!
ちなみにこのガジュマルは小さな苗だったのが、
約25年でこれだけ育ったとか。
バシャヤマ(芭蕉山、芭蕉の群生地)に入ったら、
この時期は、足元のハブに気をつけなければなりません。
鎌で、スパスパと伸びた葉っぱと芯を切り落としていきます。

手際よく作業してくださったのは、徳山さん。
大島紬の図案づくりから織りまでこなす方で、
昭和62年ごろに瀬戸内町で芭蕉を復活させようと、
仲間と試みた経験もあるそう。

手際がいいので、作業もはかどります。
切り出した葉をみんなで運び出していきました。

切り落としたばかりなのに、
もう1センチほど真ん中が生えてきています。
芭蕉の生命力ってスゴい!!

バランスを見ながら、
芯止めをしていきました。

ここの芭蕉は細いものが多く、
体験教室で使うための繊維がじゅうぶんに取り出せそうにありません。
他にも芭蕉を確保しないといけませんね。
【 芭蕉 芯止めアフター 】

このあと一部メンバーは、バシャヤマ(芭蕉の山、芭蕉の群生地)を求めて、
町内探険へ出かけました。
親子体験教室「芭蕉の糸づくり・織り」については、
日程が決まりましたら、
当ブログなどでお知らせいたします。
ぜひご参加ください!
2013.09.07
瀬戸内町 某所
奄美.asia / Y.K
「芯止め」という作業を行ないました。
瀬戸内町文化遺産活用実行委員会では、
11月末ごろに、伝統文化親子体験教室事業として
「芭蕉の糸づくり・織り」体験を予定しています。
3月に行った「芭蕉の糸づくり」の様子は、
こちらの記事をごらんください→☆
糸芭蕉の木からとり出した繊維で
糸を紡いで織る芭蕉布。
芭蕉布は、奄美群島において重要な伝統工芸であり、
とくに江戸期には瀬戸内町の特産品でしたが、現在では衰退しています。
そのため瀬戸内町文化遺産活用実行委員会では、
地域の子供たちに伝統文化を理解し、
その継承と復興につながるきっかけにしてもらいたいと、
親子を対象とした体験学習教室を計画しているところです。
* *
今回の「芯止め」は、
その体験教室で使う材料となる糸芭蕉の
手入れの一つとして重要な作業。
瀬戸内町文化遺産活用実行委員会のメンバーと、
芭蕉布を復活させたいと願う有志が、
町内某所に集まりました。
「芯止め」は、背丈の伸びた芭蕉の葉と幹の上部を切り落として、
栄養が葉っぱに行かないようにし、
根と先の太さを均一にするための作業。
繊維を柔らかくする目的もあります。
夏の間に、「芯止め」を2~3回行ない、
冬に芭蕉を倒して、糸を取り出していきます。
【 芭蕉 芯止めビフォー 】
芭蕉とガジュマルがならび、まるでジャングルのようです!
ちなみにこのガジュマルは小さな苗だったのが、
約25年でこれだけ育ったとか。
バシャヤマ(芭蕉山、芭蕉の群生地)に入ったら、
この時期は、足元のハブに気をつけなければなりません。
鎌で、スパスパと伸びた葉っぱと芯を切り落としていきます。
手際よく作業してくださったのは、徳山さん。
大島紬の図案づくりから織りまでこなす方で、
昭和62年ごろに瀬戸内町で芭蕉を復活させようと、
仲間と試みた経験もあるそう。
手際がいいので、作業もはかどります。
切り出した葉をみんなで運び出していきました。
切り落としたばかりなのに、
もう1センチほど真ん中が生えてきています。
芭蕉の生命力ってスゴい!!
バランスを見ながら、
芯止めをしていきました。
ここの芭蕉は細いものが多く、
体験教室で使うための繊維がじゅうぶんに取り出せそうにありません。
他にも芭蕉を確保しないといけませんね。
【 芭蕉 芯止めアフター 】
このあと一部メンバーは、バシャヤマ(芭蕉の山、芭蕉の群生地)を求めて、
町内探険へ出かけました。
親子体験教室「芭蕉の糸づくり・織り」については、
日程が決まりましたら、
当ブログなどでお知らせいたします。
ぜひご参加ください!
2013.09.07
瀬戸内町 某所
奄美.asia / Y.K
2013年09月05日
奄美の歴史を感じて ~夜光貝細工体験~
8月23日(金) 瀬戸内町立図書館・郷土館にて
思わず、触りたくなっちゃう夜光貝細工体験が行われました。

参加者は、京都府から奄美大島にやってきた、
こたやんさん(K+(ケイプラス)キッズ商会)率いる小中高生と
シマの(嘉鉄)小中学校の生徒たち。

子供たち、瀬戸内町のヤドリ浜で、夏休みを利用したキャンプ生活の真っ最中!!
この奄美キャンプは、島の歴史・文化・自然を通して
普段の生活ではできない体験を肌で感じてもらい、地元の人たちとの交流を大事にしたい!
そんな思いのつまった企画!
前日までは、海水浴やシーカヤックを体験。
キャンプの最終日には、地元の子どもたちとの交流会なども予定されているそうです。
キャンプ4日目(8/23)のこの日、
子どもたちには、夜光貝の輝きでさらにパワーアップして奄美を満喫してもらいました!
本日の講師は、
瀬戸内町立図書館・郷土館 埋蔵文化財担当学芸員の 鼎(かなえ) 丈太郎さん

今回は、シマの歴史についてお話が聞けるので、個人的にも楽しみにしていました!!
まずは、図書館の2階にある郷土館を見学しました。
郷土館内は、奄美の歴史・自然・文化・暮らしのコーナーに分かれていて展示品もとても充実しています。
≪奄美の生き物・植物写真など展示≫

「奄美大島でキャンプするときは、絶対草むらに入っちゃいけないと言われたよ」
「ハブってホントにいるの?」 (標本を指さして) 「これとこれとこれとどっちが強い?」
「ハブでたらどうすればいいの?向かってくるの??飛ぶって???」
ちょっと慣れてきているキャンプ生活。
再度、気が引き締まるようなお話でしたね。
≪奄美の妖怪≫

ヤドリ浜にもケンムンが多いと聞き、唾をのむ子も!!
≪奄美の昔の暮らし≫

漁具・農具が多く展示されています。
子どもたちも漁の道具に興味深々。
≪瀬戸内の民家≫

「あ~こんな家に住みたい!」 なんて声も!!
敷地の門と母屋の玄関の間にある垣根は、台風の風を防いだり、魔物を防ぐ役割もあるよ。
サンゴの石垣の上にある貝も魔除けだよ。
という説明を聞き、どよめきが!!
「まもの?いるん・・・」
≪瀬戸内の文化財≫

戦争への疑問を大人にぶつける。
子供たちの関心が高くて驚きました!!
私も戦争を知らない世代ですが、私たちが知ることで子どもたちへとつながっていくことを実感しました。
生まれた場所の、育った場所の、住んでいる場所の、こうした時代を経て今があること。
そうした歴史を知ることは、とても大事なことだと改めて考えさせられました。

諸鈍シバヤは、島の子どもたちも演じています。
同世代の子どもたちが伝承している姿は、都会の子どもたちにどう映るのでしょうか。
ぜひ、一度、現地で見てもらいたいですね。
京都の生活とまったく違う奄美の文化・暮らしに、子供たちは興味津々です。
次から次へと質問攻めにあう鼎学芸員。
丁寧に一つずつ答える鼎さんのお話を、子供たちもしっかりと聞いていました。
ブログをご覧のみなさまも
ぜひ瀬戸内町へお越しの際は、瀬戸内町立図書館・郷土館にお立ち寄りください!
面白い発見があるはずですよ!!
さあ、いよいよ夜光貝細工体験です。
まずは、小さく切り取った夜光貝パーツを選んでいきます。

見本に鼎さんの作品が並んでいます。

子どもたちは、夜光貝の作品に釘付け!
夜光貝は、大型の巻貝サザエの仲間で、奄美大島や屋久島は、生息地の北限にあたります。
九州以北には生息しない貝です。
古代の人々は、南海産の貝類を求めて、海を渡ってきたといわれています。
どれほどの肉体と精神力を持っていたのでしょう。
想像するだけで、ワクワクしてしまいます。

6~8世紀ごろの遺跡から、土器や石器、鉄器、貝札、魚の骨・獣骨などの遺物とともに、ヤコウガイの貝匙が発見されました。
この時期を代表する遺跡に 「小湊フワガネク遺跡」があります。
この時代のヤコウガイ貝匙加工場の一大拠点として、さらに九州や本土との交易があったことでも注目されています。
この貝匙は、いったい何に使われていたのでしょうか?
平安時代の文献によると、
「夜久貝(ヤクガイ)」、「夜句貝」、「屋久貝」などの記述があり、これらは、ヤコウガイを指すといわれています。
現在では、「夜光貝」と書かれますね。
いつからこの漢字が使われるようになったのか?個人的に気になっているところでもあります。
平安時代には、「螺杯(らはい)」「螺盃」としての記述もあることから、
酒盃(しゅはい)として特別な儀式などで使われていたのではないか?とも考えられています。
そこで、実際にヤコウガイの貝匙にお酒ではなく、水を入れてみました。

実際、口に運んでみると(真似だけですよ)
目の前で、虹色に輝いているではありませんか!
この輝きを昔の人々は、とても珍しく、とても大事にしていたということなのでしょう。
子供たちには、この輝きを体験してもらうために、貝匙で水を汲んで準備してもらいました!

“ものつくり”には、発見があります。
地道な手作業だからこそ、指先で感触を確かめれるようになります。

準備ができたら、11枚の耐水ペーパーを使ってコツコツと磨いていきます。
磨き方は、昨年の記事を参考にしてください!

みんな夢中で磨き続けます!!
磨き方にも個性がよく出ていますよ。自分が納得いくまで磨き続けてます!!

嘉鉄小中学校の子どもたちは、何度か体験したことがある経験者!
むずかしい粒を選んで、丸く成形を頑張っている子もいました!!

納得いくまで磨きたい!ということで、キャンプ場に持ち帰り磨くことにした子も!

好きな色の携帯ストラップを選んで仕上げています!
約1時間半で、素敵な作品が出来上がりました!!!

夜光貝細工は、磨けば磨くほど輝いていきます。
夢中になって磨く時間、作り上げる達成感を味わってもらえたら嬉しいですね!
また、奄美の歴史の中でも夜光貝は、貴重な存在。
古代から生息する夜光貝が、今でも美味しく食べられていることはもちろん、
貝殻は、玄関先に飾られていたり、花瓶やアクセサリー作りに利用されたりと、今でも奄美の暮らしの中で身近にあります。
奄美の海に生き続ける貴重な存在として、これからも大事にしていきたいですね。
元気のある子どもたちでとっても楽しい講座となりました!
ありがとうございました!!!
2013.09.03
瀬戸内町 古仁屋
調査員 Tadashi
思わず、触りたくなっちゃう夜光貝細工体験が行われました。
参加者は、京都府から奄美大島にやってきた、
こたやんさん(K+(ケイプラス)キッズ商会)率いる小中高生と
シマの(嘉鉄)小中学校の生徒たち。
子供たち、瀬戸内町のヤドリ浜で、夏休みを利用したキャンプ生活の真っ最中!!
この奄美キャンプは、島の歴史・文化・自然を通して
普段の生活ではできない体験を肌で感じてもらい、地元の人たちとの交流を大事にしたい!
そんな思いのつまった企画!
前日までは、海水浴やシーカヤックを体験。
キャンプの最終日には、地元の子どもたちとの交流会なども予定されているそうです。
キャンプ4日目(8/23)のこの日、
子どもたちには、夜光貝の輝きでさらにパワーアップして奄美を満喫してもらいました!
本日の講師は、
瀬戸内町立図書館・郷土館 埋蔵文化財担当学芸員の 鼎(かなえ) 丈太郎さん
今回は、シマの歴史についてお話が聞けるので、個人的にも楽しみにしていました!!
まずは、図書館の2階にある郷土館を見学しました。
郷土館内は、奄美の歴史・自然・文化・暮らしのコーナーに分かれていて展示品もとても充実しています。
≪奄美の生き物・植物写真など展示≫
「奄美大島でキャンプするときは、絶対草むらに入っちゃいけないと言われたよ」
「ハブってホントにいるの?」 (標本を指さして) 「これとこれとこれとどっちが強い?」
「ハブでたらどうすればいいの?向かってくるの??飛ぶって???」
ちょっと慣れてきているキャンプ生活。
再度、気が引き締まるようなお話でしたね。
≪奄美の妖怪≫
ヤドリ浜にもケンムンが多いと聞き、唾をのむ子も!!
≪奄美の昔の暮らし≫
漁具・農具が多く展示されています。
子どもたちも漁の道具に興味深々。
≪瀬戸内の民家≫
「あ~こんな家に住みたい!」 なんて声も!!
敷地の門と母屋の玄関の間にある垣根は、台風の風を防いだり、魔物を防ぐ役割もあるよ。
サンゴの石垣の上にある貝も魔除けだよ。
という説明を聞き、どよめきが!!
「まもの?いるん・・・」
≪瀬戸内の文化財≫
戦争への疑問を大人にぶつける。
子供たちの関心が高くて驚きました!!
私も戦争を知らない世代ですが、私たちが知ることで子どもたちへとつながっていくことを実感しました。
生まれた場所の、育った場所の、住んでいる場所の、こうした時代を経て今があること。
そうした歴史を知ることは、とても大事なことだと改めて考えさせられました。
諸鈍シバヤは、島の子どもたちも演じています。
同世代の子どもたちが伝承している姿は、都会の子どもたちにどう映るのでしょうか。
ぜひ、一度、現地で見てもらいたいですね。
京都の生活とまったく違う奄美の文化・暮らしに、子供たちは興味津々です。
次から次へと質問攻めにあう鼎学芸員。
丁寧に一つずつ答える鼎さんのお話を、子供たちもしっかりと聞いていました。
ブログをご覧のみなさまも
ぜひ瀬戸内町へお越しの際は、瀬戸内町立図書館・郷土館にお立ち寄りください!
面白い発見があるはずですよ!!
さあ、いよいよ夜光貝細工体験です。
まずは、小さく切り取った夜光貝パーツを選んでいきます。
見本に鼎さんの作品が並んでいます。
子どもたちは、夜光貝の作品に釘付け!
夜光貝は、大型の巻貝サザエの仲間で、奄美大島や屋久島は、生息地の北限にあたります。
九州以北には生息しない貝です。
古代の人々は、南海産の貝類を求めて、海を渡ってきたといわれています。
どれほどの肉体と精神力を持っていたのでしょう。
想像するだけで、ワクワクしてしまいます。
6~8世紀ごろの遺跡から、土器や石器、鉄器、貝札、魚の骨・獣骨などの遺物とともに、ヤコウガイの貝匙が発見されました。
この時期を代表する遺跡に 「小湊フワガネク遺跡」があります。
この時代のヤコウガイ貝匙加工場の一大拠点として、さらに九州や本土との交易があったことでも注目されています。
この貝匙は、いったい何に使われていたのでしょうか?
平安時代の文献によると、
「夜久貝(ヤクガイ)」、「夜句貝」、「屋久貝」などの記述があり、これらは、ヤコウガイを指すといわれています。
現在では、「夜光貝」と書かれますね。
いつからこの漢字が使われるようになったのか?個人的に気になっているところでもあります。
平安時代には、「螺杯(らはい)」「螺盃」としての記述もあることから、
酒盃(しゅはい)として特別な儀式などで使われていたのではないか?とも考えられています。
そこで、実際にヤコウガイの貝匙にお酒ではなく、水を入れてみました。
実際、口に運んでみると(真似だけですよ)
目の前で、虹色に輝いているではありませんか!
この輝きを昔の人々は、とても珍しく、とても大事にしていたということなのでしょう。
子供たちには、この輝きを体験してもらうために、貝匙で水を汲んで準備してもらいました!
“ものつくり”には、発見があります。
地道な手作業だからこそ、指先で感触を確かめれるようになります。
準備ができたら、11枚の耐水ペーパーを使ってコツコツと磨いていきます。
磨き方は、昨年の記事を参考にしてください!
みんな夢中で磨き続けます!!
磨き方にも個性がよく出ていますよ。自分が納得いくまで磨き続けてます!!
嘉鉄小中学校の子どもたちは、何度か体験したことがある経験者!
むずかしい粒を選んで、丸く成形を頑張っている子もいました!!
納得いくまで磨きたい!ということで、キャンプ場に持ち帰り磨くことにした子も!
好きな色の携帯ストラップを選んで仕上げています!
約1時間半で、素敵な作品が出来上がりました!!!
夜光貝細工は、磨けば磨くほど輝いていきます。
夢中になって磨く時間、作り上げる達成感を味わってもらえたら嬉しいですね!
また、奄美の歴史の中でも夜光貝は、貴重な存在。
古代から生息する夜光貝が、今でも美味しく食べられていることはもちろん、
貝殻は、玄関先に飾られていたり、花瓶やアクセサリー作りに利用されたりと、今でも奄美の暮らしの中で身近にあります。
奄美の海に生き続ける貴重な存在として、これからも大事にしていきたいですね。
元気のある子どもたちでとっても楽しい講座となりました!
ありがとうございました!!!
2013.09.03
瀬戸内町 古仁屋
調査員 Tadashi
2013年09月04日
隊長鼎のつれづれ夏休み絵日記 ~せとなみ~
隊長鼎の夏休み絵日記 待望の第二段?
「せとなみ 船上からの風景」
平成25年7月19日(金)
瀬戸内町内に住んでいても、なかなか行く機会のない「与路島」へ行ってきました。
「せとなみ」に乗って、いざ出発!!

せとなみに乗るのも久しぶりです。
まず、見えてきたのは「待ち網崎」

戦時中は、海軍の対空砲の基地があり、かなり防戦をした所です。
現在は、観光公園として整備されています。
次に見えてきたのは、安脚場集落。

砂丘が綺麗な集落です。
風の当たらない砂丘の向こう側に集落があるので、海からだと家が目立ちませんね。
ちなみに、瀬戸内町で確認されている最古の遺跡「安脚場遺跡」は、ここにあります。
つづいて、カネンテ崎。

こちらも、戦時中の基地がある場所。
探照灯が設置された場所が、かろうじて見えています。
船は、加計呂麻島の東側を南進します!

見えてきたのは、潮吹き岩!!
波が寄せるたび、潮を吹きます。見ていて飽きません。
そして船の行く手に見えるのは、「ひよこ」。

福岡銘菓の「ひよこ」に似ているからなのか?
瀬戸内町の人々に「ひよこ」と呼ばれています。
他にも「見返り猫」と言う人もいます。
あなたは、何に見えますか?
船は、請島「請阿室」に寄港し、タンデ島の横を通って、

請島のシンボル「大山」を望みます。

希少種も多く、入山するには申請が必要です。
池地港の風景

綺麗な風景に仕事できたことを忘れてしまいそうです。
さあ船は、請島水道を走って、与路島を目指します!!

だんだんタンデ島も遠くなっていきます。
請島水道から、ふと加計呂麻島の方を見てみると、遠くに島影が
生まれ故郷で現在も住んでいる「奄美大島」。

右は「高地山と油井岳」
すると…もしかして、左は
「湯湾岳?」
視界がいい日とはいえ、この場所から「湯湾岳」 見えるのでしょうか?
さあ、ついに「ハミャ島」です。

小さい島でありながら、この砂丘のインパクトは、見る者を圧倒します。
天気が良すぎたこの日、
「せとなみ」は揺れることもなく、とても快適な船旅でした。
機会があったら、皆様もぜひ、「せとなみ」の船旅をどうぞ!
隊長鼎のつれづれ夏休み絵日記 「与路島編」は、後日?
乞うご期待?
130719 瀬戸内町 加計呂麻島 請島 与路島
S.B.I 隊長 鼎
「せとなみ 船上からの風景」
平成25年7月19日(金)
瀬戸内町内に住んでいても、なかなか行く機会のない「与路島」へ行ってきました。
「せとなみ」に乗って、いざ出発!!
せとなみに乗るのも久しぶりです。
まず、見えてきたのは「待ち網崎」
戦時中は、海軍の対空砲の基地があり、かなり防戦をした所です。
現在は、観光公園として整備されています。
次に見えてきたのは、安脚場集落。
砂丘が綺麗な集落です。
風の当たらない砂丘の向こう側に集落があるので、海からだと家が目立ちませんね。
ちなみに、瀬戸内町で確認されている最古の遺跡「安脚場遺跡」は、ここにあります。
つづいて、カネンテ崎。
こちらも、戦時中の基地がある場所。
探照灯が設置された場所が、かろうじて見えています。
船は、加計呂麻島の東側を南進します!
見えてきたのは、潮吹き岩!!
波が寄せるたび、潮を吹きます。見ていて飽きません。
そして船の行く手に見えるのは、「ひよこ」。
福岡銘菓の「ひよこ」に似ているからなのか?
瀬戸内町の人々に「ひよこ」と呼ばれています。
他にも「見返り猫」と言う人もいます。
あなたは、何に見えますか?
船は、請島「請阿室」に寄港し、タンデ島の横を通って、
請島のシンボル「大山」を望みます。
希少種も多く、入山するには申請が必要です。
池地港の風景
綺麗な風景に仕事できたことを忘れてしまいそうです。
さあ船は、請島水道を走って、与路島を目指します!!
だんだんタンデ島も遠くなっていきます。
請島水道から、ふと加計呂麻島の方を見てみると、遠くに島影が
生まれ故郷で現在も住んでいる「奄美大島」。
右は「高地山と油井岳」
すると…もしかして、左は
「湯湾岳?」
視界がいい日とはいえ、この場所から「湯湾岳」 見えるのでしょうか?
さあ、ついに「ハミャ島」です。
小さい島でありながら、この砂丘のインパクトは、見る者を圧倒します。
天気が良すぎたこの日、
「せとなみ」は揺れることもなく、とても快適な船旅でした。
機会があったら、皆様もぜひ、「せとなみ」の船旅をどうぞ!
隊長鼎のつれづれ夏休み絵日記 「与路島編」は、後日?
乞うご期待?
130719 瀬戸内町 加計呂麻島 請島 与路島
S.B.I 隊長 鼎
2013年09月01日
島のお盆(送り) 西古見
旧暦お盆の3日目、送り盆。
ふたたび西古見を訪れました。
「中日(なかび)」と呼ばれる2日目は、
親戚の家や、他の家へ拝みに回ったりします。
西古見で働く古志(こし)在住のかたによると、
古志では、「中戻し(なかもどし)」と言って
窓に提灯をつけておくと、
初日に迎えたご先祖さまが2日目の午後3時ぐらいに
いったんあの世に戻っていくそう。
その後、ふたたび勝手に(!)自分でこの世に戻ってくるとか。
集落によっては、
14日の夕方にいったんお墓に送る集落もかなりあるようです。
その後は15日に、また迎えに行ったり、
自分で戻ってきたりとさまざまな「中戻し」があります。
* *
送り盆の日、
まずお話をうかがったのは、茂(しげる)さんのお宅。
イフェダナ(位牌棚)の後ろには、屏風を立てていました。
こちらは、お盆の時だけ使う屏風。

位牌棚を見えないように
屏風で囲うお宅もあるそうです。
あの世から来た親と、この世の子が対面し、
話などをするので外から見えるといけないからだと言われています。
われわれが茂さん宅にうかがった時は
送り盆のお昼の食事が供えられていたところでした。
赤飯、味噌汁、煮物、お茶。
ショウロウの葉を落とし作った箸は、十字に挿しています。
この「十字のバッテン」が魔除けになるとの言われも。

茂さんのお宅では、3日間のお供えに、
肉や魚はいっさい使用せず。これも家によって違いますね。
< 13日 迎え盆 >
夕方にお迎え
お茶、お菓子(じょうひ餅)
< 14日 中日 >
朝 : 白ご飯、味噌汁、お漬物、お茶
昼 : そうめん(茹でて浅いお椀に入れて、ダシとネギをかける)、お茶
夜 : お茶を変える
< 15日 送り盆 >
朝 : 白ご飯、漬物、味噌汁(豆腐・ワカメ)、
昼 : 赤飯(お汁粉にすることも)、野菜の煮物(厚揚げ、昆布、冬瓜)、味噌汁
夜 : お昼のものに、揚げ物などおかずを添える
18時すぎに送り
以前は、「七夕大根」と言って、旧暦7月7日七夕に大根の種をまいて、
育った菜っ葉をお味噌汁の具に使っていたそうです。
* *
また昔は型菓子を自宅で作っていて、
まだ木型をお持ちでした。
この木型に、
かし粉、黒糖、ハチミツなど混ぜあわせたものをはめて型菓子を作ります。

「昭和十一年」とあります。
近所などで貸し借りするから名前を明記していたんでしょうね。

茂セツコさんのご実家は、隣の管鈍(くだどん)集落。
旧盆のやりかたは、西古見とだいたい一緒だけど、
送りの日は、なんとお墓で花火をするそうです!
* *
その後、お盆の初日にうかがった濱崎さんのところへも、
ふたたび足を運びました。
14時半ごろでしたが、
送りの夕食を供えていたところ。
赤飯、味噌汁(豆腐、菜っ葉、豚肉)、ニガウリと卵・ツナの炒めもの。
冬瓜と豚肉の煮物、たくあん。

その後、15時半ごろには、送りのお祝いのごちそうが出されました。

位牌棚には、おちょこに焼酎、ビール、スイカなども供えられ、
ご先祖さまをはじめ、亡くなった濱崎さんのご主人もきっと大満足でしょうね。
* *
そうこうしていると、送り盆も終わるころに。
17時ごろから、
ぽつぽつと提灯を手に
墓地へと向かうかたがたの姿が集落内に見えてきました。
家から、ろうそくを灯した提灯でご先祖さまをお伴して、
お墓へとお見送りします。

18時ごろには、
西古見の墓地もかなりのにぎわいが。
濱崎さんも、いらっしゃいました。

提灯もさまざまできれいですね。

「来年もまた来てください」と拝み、
花を新しくし、水やお酒、そしてあの世へのおみやげも供えます。


提灯は、家からお伴してきたものとは別に小さなものをお墓に。
吊り下げる金具がお墓に備え付けてあったり。

竹を使って吊るしたり。

提灯の吊るしかたもいろいろあって興味深いですね。

ご先祖さまへのあの世のおみやげとして
お墓に供えられるのが「ムジノコ」。
団子に、ムジ(里芋)の茎をきざんだものと、米粒を混ぜたもの。

ムジ(里芋)の茎は笹切りにしたり、
お金のように丸く切ったほうがいいと言われる集落、
ムジの葉っぱを下に敷くやり方法も。
米も生米だったり、水でふやかしたり。

その他のおみやげとして、
型菓子や果物もありました。ショウロウ箸も一緒に。

集落も人口が減ってきて、都会で暮らす親戚や近所の人から、
送りを頼まれているかたも多いようです。
1人で1時間以上かけていくつものお墓で、
花を替え、線香をあげて、提灯を立ててと
ていねいに送りをしているかたがいらっしゃいました。

お盆では「迎えは早く、送りは遅く」と言われており、
さらに「他の人よりも遅くお伴するのがよい」と、
暗くなってから送るかたが多かったそう。
集落のかたがたも年配の方が多く、
真っ暗になると墓地では足元が危ないこともあって、
まだ明るいうちに送る人が増えているとのこと。
「昔は、真っ暗な中に提灯の灯りだけがいっぱい浮かんでいて、
そりゃ綺麗だったよー」と、懐かしむ集落のかたの声がありました。
* *
日が暮れ、夜19時半になると、
集落の公民館の広場で、八月踊り。
「♪ ドン、ドン、ドン~、ドン、ドン、ドン~」と、
チヂン(太鼓)の音があたりに鳴り響き、20人近くが集まっていました。
送り盆の夜の八月踊りは、ご先祖さまも踊っているので、
あの世とこの世の踊りの競争です。
老人会長の加(くわえ)さんが先頭になって、
集落のみなさんも輪になって踊ります。

加さんが小さなころは、アハシ(枯れた松)を焚いて、
二重の輪になるほどシマの人たちが集まって踊っていたそう。
「歌詞を間違えると、年配のウジ(おじさん)たちから怒られよったよ」との思い出も。
西古見出身で名瀬在住の方も、
娘さんと息子さん夫婦、お孫を連れて八月踊りに参加。
迎えと、送りの日にシマ(西古見)に来て、八月踊りが終わったら名瀬へ。


お孫さんたちは、花火もやったりして、お盆を楽しんでいました。
自分のルーツとなるシマの暮らしが、
こうやって子どもたちの記憶に刻まれていくのでしょうね。

もちろんこれはかかせません、焼酎のふるまい。

* *
先祖を送った翌日、
旧暦7月16日は、
一年間を通じての最大の”悪日(あくじつ)”。
「海や山へ行ってはいけない」
「仕事はしてはいけない」
「何もしない日」
と言われています。
これは、先祖供養の忌み明けを示すものだそう。
七夕から始まり
旧盆の3日間と続いたにぎやかな島のお盆。
一連の営みが、この旧暦7月16日をもって終わりです。
* *
お話をうかがった濱崎さんが、
「あっという間の3日間だったねぇ・・・」との言葉とともに見せていた表情が印象的でした。
お供えを作るために、
準備から含めると忙しい数日間を過ごし疲れているはずなのに、
ご先祖さまがあの世に戻って行くのがちょっぴりさびしそうにも見えたのです。

旧盆は、一年で一度、ご先祖さまを迎え、
遠くに住んでいる家族も集まって、
親と子のつながりに思いをはせる大事な行事。
そんな大切な時間の合間、
お話をうかがったり、ご先祖さまをお迎えする場所やお墓を見せていただき、
貴重な経験となりました。
時代の変化とともに、
旧盆のしきたりや過ごし方も簡素化や変化はしていますが、
島のご先祖さまや家族を思う気持ちは、
しっかりと受け継がれていることに触れられました。
ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会
・「奄美の暮しと儀礼」 田畑 千秋
2013.08.21 旧盆(送り盆)
瀬戸内町 西古見
奄美.asia / Y.K
ふたたび西古見を訪れました。
「中日(なかび)」と呼ばれる2日目は、
親戚の家や、他の家へ拝みに回ったりします。
西古見で働く古志(こし)在住のかたによると、
古志では、「中戻し(なかもどし)」と言って
窓に提灯をつけておくと、
初日に迎えたご先祖さまが2日目の午後3時ぐらいに
いったんあの世に戻っていくそう。
その後、ふたたび勝手に(!)自分でこの世に戻ってくるとか。
集落によっては、
14日の夕方にいったんお墓に送る集落もかなりあるようです。
その後は15日に、また迎えに行ったり、
自分で戻ってきたりとさまざまな「中戻し」があります。
* *
送り盆の日、
まずお話をうかがったのは、茂(しげる)さんのお宅。
イフェダナ(位牌棚)の後ろには、屏風を立てていました。
こちらは、お盆の時だけ使う屏風。
位牌棚を見えないように
屏風で囲うお宅もあるそうです。
あの世から来た親と、この世の子が対面し、
話などをするので外から見えるといけないからだと言われています。
われわれが茂さん宅にうかがった時は
送り盆のお昼の食事が供えられていたところでした。
赤飯、味噌汁、煮物、お茶。
ショウロウの葉を落とし作った箸は、十字に挿しています。
この「十字のバッテン」が魔除けになるとの言われも。
茂さんのお宅では、3日間のお供えに、
肉や魚はいっさい使用せず。これも家によって違いますね。
< 13日 迎え盆 >
夕方にお迎え
お茶、お菓子(じょうひ餅)
< 14日 中日 >
朝 : 白ご飯、味噌汁、お漬物、お茶
昼 : そうめん(茹でて浅いお椀に入れて、ダシとネギをかける)、お茶
夜 : お茶を変える
< 15日 送り盆 >
朝 : 白ご飯、漬物、味噌汁(豆腐・ワカメ)、
昼 : 赤飯(お汁粉にすることも)、野菜の煮物(厚揚げ、昆布、冬瓜)、味噌汁
夜 : お昼のものに、揚げ物などおかずを添える
18時すぎに送り
以前は、「七夕大根」と言って、旧暦7月7日七夕に大根の種をまいて、
育った菜っ葉をお味噌汁の具に使っていたそうです。
* *
また昔は型菓子を自宅で作っていて、
まだ木型をお持ちでした。
この木型に、
かし粉、黒糖、ハチミツなど混ぜあわせたものをはめて型菓子を作ります。
「昭和十一年」とあります。
近所などで貸し借りするから名前を明記していたんでしょうね。
茂セツコさんのご実家は、隣の管鈍(くだどん)集落。
旧盆のやりかたは、西古見とだいたい一緒だけど、
送りの日は、なんとお墓で花火をするそうです!
* *
その後、お盆の初日にうかがった濱崎さんのところへも、
ふたたび足を運びました。
14時半ごろでしたが、
送りの夕食を供えていたところ。
赤飯、味噌汁(豆腐、菜っ葉、豚肉)、ニガウリと卵・ツナの炒めもの。
冬瓜と豚肉の煮物、たくあん。
その後、15時半ごろには、送りのお祝いのごちそうが出されました。
位牌棚には、おちょこに焼酎、ビール、スイカなども供えられ、
ご先祖さまをはじめ、亡くなった濱崎さんのご主人もきっと大満足でしょうね。
* *
そうこうしていると、送り盆も終わるころに。
17時ごろから、
ぽつぽつと提灯を手に
墓地へと向かうかたがたの姿が集落内に見えてきました。
家から、ろうそくを灯した提灯でご先祖さまをお伴して、
お墓へとお見送りします。
18時ごろには、
西古見の墓地もかなりのにぎわいが。
濱崎さんも、いらっしゃいました。
提灯もさまざまできれいですね。
「来年もまた来てください」と拝み、
花を新しくし、水やお酒、そしてあの世へのおみやげも供えます。
提灯は、家からお伴してきたものとは別に小さなものをお墓に。
吊り下げる金具がお墓に備え付けてあったり。
竹を使って吊るしたり。
提灯の吊るしかたもいろいろあって興味深いですね。
ご先祖さまへのあの世のおみやげとして
お墓に供えられるのが「ムジノコ」。
団子に、ムジ(里芋)の茎をきざんだものと、米粒を混ぜたもの。
ムジ(里芋)の茎は笹切りにしたり、
お金のように丸く切ったほうがいいと言われる集落、
ムジの葉っぱを下に敷くやり方法も。
米も生米だったり、水でふやかしたり。
その他のおみやげとして、
型菓子や果物もありました。ショウロウ箸も一緒に。
集落も人口が減ってきて、都会で暮らす親戚や近所の人から、
送りを頼まれているかたも多いようです。
1人で1時間以上かけていくつものお墓で、
花を替え、線香をあげて、提灯を立ててと
ていねいに送りをしているかたがいらっしゃいました。
お盆では「迎えは早く、送りは遅く」と言われており、
さらに「他の人よりも遅くお伴するのがよい」と、
暗くなってから送るかたが多かったそう。
集落のかたがたも年配の方が多く、
真っ暗になると墓地では足元が危ないこともあって、
まだ明るいうちに送る人が増えているとのこと。
「昔は、真っ暗な中に提灯の灯りだけがいっぱい浮かんでいて、
そりゃ綺麗だったよー」と、懐かしむ集落のかたの声がありました。
* *
日が暮れ、夜19時半になると、
集落の公民館の広場で、八月踊り。
「♪ ドン、ドン、ドン~、ドン、ドン、ドン~」と、
チヂン(太鼓)の音があたりに鳴り響き、20人近くが集まっていました。
送り盆の夜の八月踊りは、ご先祖さまも踊っているので、
あの世とこの世の踊りの競争です。
老人会長の加(くわえ)さんが先頭になって、
集落のみなさんも輪になって踊ります。
加さんが小さなころは、アハシ(枯れた松)を焚いて、
二重の輪になるほどシマの人たちが集まって踊っていたそう。
「歌詞を間違えると、年配のウジ(おじさん)たちから怒られよったよ」との思い出も。
西古見出身で名瀬在住の方も、
娘さんと息子さん夫婦、お孫を連れて八月踊りに参加。
迎えと、送りの日にシマ(西古見)に来て、八月踊りが終わったら名瀬へ。
お孫さんたちは、花火もやったりして、お盆を楽しんでいました。
自分のルーツとなるシマの暮らしが、
こうやって子どもたちの記憶に刻まれていくのでしょうね。
もちろんこれはかかせません、焼酎のふるまい。
* *
先祖を送った翌日、
旧暦7月16日は、
一年間を通じての最大の”悪日(あくじつ)”。
「海や山へ行ってはいけない」
「仕事はしてはいけない」
「何もしない日」
と言われています。
これは、先祖供養の忌み明けを示すものだそう。
七夕から始まり
旧盆の3日間と続いたにぎやかな島のお盆。
一連の営みが、この旧暦7月16日をもって終わりです。
* *
お話をうかがった濱崎さんが、
「あっという間の3日間だったねぇ・・・」との言葉とともに見せていた表情が印象的でした。
お供えを作るために、
準備から含めると忙しい数日間を過ごし疲れているはずなのに、
ご先祖さまがあの世に戻って行くのがちょっぴりさびしそうにも見えたのです。
旧盆は、一年で一度、ご先祖さまを迎え、
遠くに住んでいる家族も集まって、
親と子のつながりに思いをはせる大事な行事。
そんな大切な時間の合間、
お話をうかがったり、ご先祖さまをお迎えする場所やお墓を見せていただき、
貴重な経験となりました。
時代の変化とともに、
旧盆のしきたりや過ごし方も簡素化や変化はしていますが、
島のご先祖さまや家族を思う気持ちは、
しっかりと受け継がれていることに触れられました。
ご協力いただいたみなさま、本当にありがとうございました。
< 参考文献 >
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会
・「奄美の暮しと儀礼」 田畑 千秋
2013.08.21 旧盆(送り盆)
瀬戸内町 西古見
奄美.asia / Y.K