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2013年01月31日

本日、1月のラジオ放送

われらS.B.I (瀬戸内町文化遺産活用実行委員会)の
ラジオ番組「 せとうち なんでも探検隊 」 、

1月分、本日放送です


エフエムせとうちあまみエフエムの両方でお聴きいただけます。


【 内容 】 

今月のヒギャジマンのコーナー、テーマは与路島




ゲストに、瀬戸内町観光協会から
観光コーディネーターの徳永さんをお迎えしてお話をうかがっています。

徳永さんは、与路島のご出身。

シマの思い出、
与路のさまざまなことをご紹介いただきます。

与路島へのアクセスや、宿泊などのお話もありますよ!





【 放送時間 】
 

◎ エフエムせとうち

1月31日 (木)
10:10~、14:40~、20:40~


◎ あまみエフエム ディ!ウェイブ

1月31日(木)
14:40~


あまみエフエムは、インターネットサイマルラジオでも
放送されます。


どうぞ、よろしくお願いいたします!











  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 09:32Comments(0)エフエムせとうち

2013年01月30日

消防 救急艇「おおとり」

26日の文化財防火デーでは、
瀬戸内町の消防のかたがたの指導で防火訓練が開催されました。

その際、われわれは加計呂麻島までの往復を
消防の船に同乗させていただきました。

ん? 消防に船!?

そうなんです!
瀬戸内町の消防には、船が配備されております。

それがこの、”救急車”の船版、救急艇「おおとり」

▲上に、赤いランプが。出動している時は、もちろん回ります
  


町民のみなさんには、おなじみな存在でしょうか?

消防に船があるなんて、
今回、初めて知ってビックリしました。

考えれば
瀬戸内町は、奄美大島の一部、加計呂麻島、請島、与路島と
4つの島からなる町。


診療所はあっても、
医師の常駐していない加計呂麻・請・与路島に急患が発生した場合、
奄美大島にある大きな病院へ搬送する船が、どうしても必要になります。

各島から救急患者が出た場合には、
看護師さんや家族の要請を受けて出動。


もちろん救急車と同じなので、
火災、救急・救助とすべての役割を担っています。



▲「おおとり」の船内では応急処置も行います


また奄美大島側でも
花天(けてん)・管鈍(くだどん)・西古見(にしこみ)へは、
消防分署のある古仁屋から陸路で行くよりも早いので
「おおとり」の出番となります。


島々の高齢化も進んでいることもあり、
出動要請は年々増加傾向。

月に16回ぐらい出動することもあり、
一年平均にすると、
140~150件もの出動があるとのこと(3分の1が夜間)。


年に1,2回あるかないかですが、ハブ咬傷で運ばれるかたもいらっしゃる
というのも、島ならではですね。


▲担架を運んだり作業をしやすいように、デッキ部分は平ら



古仁屋港~加計呂麻島の生間港まで
通常かかる時間は、町営フェリーで20分、海上タクシー(貸切船)では、約15分。

「おおとり」は出動した場合、
この同じ距離を6~7分で行くそうです。

まさに海の上の救急車!

なんと消防ポンプも装備されているので、消火活動も可能。
救急車+消防車の役割もあるのですね。

ほかにも海難事故、行方不明捜索、船舶火災など
さまざまな場面で活躍しています。




瀬戸内町の消防のかたがた。
正式には、「大島地区消防組合 瀬戸内分署」のみなさん。



鹿児島県内の市町村で
この救急艇が配置されているのは、瀬戸内町のみ。

九州でも長崎県内に一艇あるだけとのこと。



瀬戸内町に「おおとり」が配備されたのは、
第1号が、昭和43年の救急専門船。

その12年後に、消防の小型ポンプも装備された第2号、
そして現在の3号目となる船が平成11年3月に就航。

今の3代目「おおとり」も、あと4~5年したら更新される予定だそうです。


島々からなる瀬戸内町ならではの
われわれの安全と命を守る、心強い存在です。






2013.01.26 瀬戸内町 古仁屋 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内


  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 14:09Comments(0)奄美大島

2013年01月27日

加計呂麻島 大屯神社 / 文化財防火デー 

1月26日は、「文化財防火デー」。

加計呂麻島 諸鈍(しょどん)集落にある
大屯神社(おおちょんじんじゃ)にて、防火訓練がありました。


▲ヒカン桜が咲いてました。



昭和24年の1月26日に、
現存する世界最古の木造建造物である「法隆寺」で火災が発生し、金堂の壁画が焼損。

昭和30年に、この日を「文化財防火デー」と定め、
貴重な文化財を火災・震災その他の災害から守るために、
文化庁消防庁が協力して全国的に文化財防火運動を展開。




町内では過去に

◎油井集落   県指定無形民俗文化財 『油井の豊年踊り』、
◎網野子集落  町指定無形民俗文化財 『アンドンデー
◎伊子茂集落  町指定有形文化財 『西家』の住宅・工芸品・古文書など
◎瀬戸内町立図書館・郷土館

などの文化財のあるいずれかの場所で、毎年防火訓練を実施しています。





この諸鈍の大屯神社では、旧暦九月九日に祭りがあり、
そのなかで国の重要無形民俗文化財に指定されている伝統芸能「諸鈍シバヤ」が披露されます。

その貴重な道具や資料などが保管されているため、
何年かぶりに、同地での訓練となりました。


諸鈍集落のみなさん、
消防の瀬戸内分署、
瀬戸内町文化財保護審議会のメンバーが集まり開始です。




大屯神社境内で火災が発生したと想定し、発見者が119番で通報。
訓練火災発生の集落放送がありました。

初期消火訓練として、集落のみなさんがバケツリレーを開始。



消火!



「諸鈍シバヤ」の衣装や道具類への延焼を防ぐために、搬出の練習。



「どれ一つかけても本当に困る、大切なシバヤの道具です」と搬出したかた。
貴重なものをいかに早く運び出すか、課題です。



小型動力ポンプから放水の訓練。
消火栓がちょっと離れたところにあるため、この時は水槽を準備していました。
火災が起きた場合は、すぐ目の前の海岸から水を調達することになるそう。



消火器の取り扱い訓練も。
まずは消防の方がお手本を見せてくださいました。


頭では分かっていても
いざ火を目の前にすると、焦ってしまいそうですね・・。

集落のかたも実際にやってみます。
動きに無駄がなく、お上手でした。



消防のかたから、「バケツリレーを再度練習しましょう」と提案。


ポイントなどを教えてもらい
今度は2列になって水の入ったバケツを運ぶ人、空のバケツを戻す人に分かれました。
スムーズにバケツが動いています!



諸鈍小・中学校の生徒(庭球部とありましたね!)も参加。
おっ! 真面目にやってる!



んっ? カメラを見つけて笑顔が出ちゃいましたね。
でもこういった練習を経験することは、火災が起きた時にきっと役立つはず。



消防の長岡隊長から訓練の講評などがあり終了です。




消防の車。
「諸鈍」と集落名が入っています。



荷台にはポンプ。



こちらは「生間」の集落名が。
とってもカワイイなーと思って撮ってたのですが、
島の集落は細い道が多く、こういった小型のものが活躍するのでしょうね(活躍してほしくはありませんが・・)。



大屯神社からすぐ、諸鈍・長浜。
もしもの時は、ここから消火用の水を調達することになりことも。
この日は天気もよく、シマ唄で唄われるように、とても美しい海岸。



こうやって訓練してみると
火災発見や通報、初期消火、
そして道具などの搬出など集落の人々でできることがあるんだと分かります。

いざという時のために冷静でいられるよう、
やはり日頃から「誰が・どう動くか」の訓練をしていないと、
被害を最小限に留めることはできないでしょう。





今回は、諸鈍集落のかたの参加も非常に多くて、
大屯神社や諸鈍シバヤに対する思い、
シマのものを大切に守ろうとする
みなさんの意識の高さがうかがえました。








2013.01.26 瀬戸内町 加計呂麻島 諸鈍

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内



  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 15:35Comments(0)行事・イベント

2013年01月25日

与路島の門松・松飾り

シマの門松を紹介したあと教えてもらった、
与路島での「門松を外した後にする独特の風習」。




1月17日、島案内人育成講座に同行し
与路島の集落を散策していた時に見ることができました。

それが、この松の飾り



与路島では、
お正月に飾った門松を1月14日の干潮時にいったんはずし、
その跡に、はずした門松から松の芯や先のほうだけを取って飾っておく慣わしがあるそうなんです。


















サンゴの石垣で囲われたこちらのアパート。



入口はブロック塀でしたが、やはり両側に松だけが飾られていました。



与路島の門松自体は、
先日見て回った瀬戸内町全体に共通するものと同じ。

松、竹、椎の木、ゆずり葉などを束ねたもの。

ちょうどアパートの入口に、外した門松がありました。
松の先のほうがなくなっています。
おそらくその部分を飾ったと思われます。




14日に正月に飾った門松をいったん外し、
松だけを飾るのは
小正月を迎えるためなんだそう。







14日に飾った松は、とくに外す日が決まっているのではなく、
自然となくなるまでそのままにしておくとのこと。



与路島では、門松を立てるためのパイプが埋め込まれているお宅が多かったです。
もちろん白砂は周りに盛って。






こちらの特徴的な門口にもパイプが埋め込まれてあります。
松が自然となくなったら、正月まではゴミなどが入らないようにアイスのフタ(!?)などをつけておくとか。
直径がちょうどいいサイズかもしれませんね。

こちらにもちゃんと下に白砂を盛っていますね。

素晴らしいサンゴの石垣です。



正月飾りとして、与路集落の公民館には、
枝ぶりの立派な松も飾られていました。



かつて与路島で盛んに行われていた黒糖生産。
先祖代々受け継がれてきた貴重な地場産業でした。

とくに2月から3月は、製糖の最盛期。

いたるところにサタヤドリ(製糖小屋)があり、
そこに家族全員で寝泊まりしながら作業していたほど、島は活気があり忙しかったといいます。


『 与路島誌 』 (著・屋崎 一)によれば、
「15日を小正月(クヮショウガツ)と称し、
各家庭では丼にシュウクィ(肴)を拵え、忘れかけていた正月気分を盛り返す。
この日の晩は、三味線・島唄・ナンコで賑わい家廻りも各所で行われた」。

また、

『瀬戸内町誌 (民俗編)』には、
「十五日を過ぎたら、村の人はほとんどの人が山の砂糖小屋に泊りこみで作業に出かけるので、
村の人が半分ほどになった。だから行事は十五日で終了した」との記述がありました。

島の人にとって正月から1月中旬のこの小正月までが、
自宅でゆっくりとできる
わずかな時間だったのかもしれません。

与路島の松飾りは、
そんな小正月を迎える象徴的なものでした。








< 参考文献 >
・「与路島誌」 屋崎 一 
・「瀬戸内町誌 (民俗編)」 瀬戸内町教育委員会



2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内



  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 18:55Comments(0)与路島

2013年01月23日

与路島 散策 ・サンゴの石垣

瀬戸内町の南にある、
与路島(よろじま)へ行ってきました。



今回も、瀬戸内町役場まちづくり観光課が主催する
「第4回 島案内人育成講座」に同行させていただきました(第3回の須子茂集落散策→こちら


瀬戸内町は、奄美大島部分と、大島海峡を間に挟んである加計呂麻島
そして請島与路島があります。


【 瀬戸内町の全体地図 】 こちらをご参照ください(瀬戸内町観光協会サイト)     →http://www.kyurajima.com/sites/default/files/img/page/20110427_2.pdf


与路島は、奄美大島の古仁屋から海上35km、
町の「定期船せとなみ」だと、請島を経由し約1時間30分(直行便だと50分)。

この日、受講生は古仁屋から海上タクシー(貸切船)で直接与路島へ行く組と、
加計呂麻島の受講生と合流するために、いったん加計呂麻島を経由する組に分かれました。

冬は外洋が荒れ、夏は台風などで、
定期船せとなみは欠航になったり、抜港や条件付き運航になる日も多く、
そういった時は、加計呂麻島を経由して行く”中渡し”という方法で与路島へ行くこともできます。

中渡しでは、古仁屋港から加計呂麻島の瀬相港へ一旦渡り、
車で移動し伊子茂港へ。そして伊子茂港から与路港へ。

▲中渡し組は、伊子茂港で乗り換え


中渡しのルートは外洋を通るのに比べ穏やかなはずですが、
この日は波がけっこうあり、ちょっとスリリングな船旅に。

古仁屋から与路島までは、
加計呂麻島経由の中渡し組で約1時間、
外洋回り直接組(請島のジャナレ島回り)で約1時間20分でした。


与路島・請島のかたがたは、悪天候で船が欠航して家に戻れなかったり、
長く物資が入ってこなかったりと
海の状況に直接左右されるなか暮らしていることに、
同じ瀬戸内町ながら、本当に大変なことだろうと感じます。






与路島に着くと、この日案内してくださる区長の保島さんをはじめ、
信川さん、中村さんたちが出迎えてくださいました。

待合所には「いーおーちゃーどー」。

「よく、いらっしゃいました」の意味だそうです。
古仁屋ともまた違う言葉で、旅情をかきたてられますね。


まずは港のすぐそばの「クモディ(雲瀬)」へ。
大きな岩のそばに記念碑が建っていました。


かつてノロ神の祭祀であるオムケ(御迎え)・オーホリ(御送り)が
この岩の上で行われたという神聖なところ。
昔は、海の中にあり、ノロ舟のともづなを止めていたそう。

この場所で撮影された1962年の「オーホリ(御送り)」の写真が、
瀬戸内町立図書館・郷土館2階に展示されていますので、ぜひ一度ごらんください。

昔から子どもたちが乗って遊ぶことも禁じられていた聖なる岩、
なんですが・・ヤギがつながれていました。



そして、与路集落の中へ。

与路島は周囲18.4km、一島一集落。

現在、59世帯、人口102名。

大正から昭和30年頃までは1000人を越えていたこともあり、
なんと昭和25年には、222世帯1348名もの人口が!
現在の静かな様子からは想像もできませんが、古仁屋に次ぐ大きな集落だったこともあるそうです。





そして人々を惹きつけてやまない、
与路島ならではの美しい風景「サンゴの石垣」。

奄美群島の中でもこのサンゴの石垣が数多く残っている島で、
情緒があり、とても魅力ある景観。

国土交通省の次世代に引き継ぎたい島の景観として、
島の宝100景「涼を呼ぶサンゴの石垣」として選ばれています。



▲この4尺(1m20cm)が基本の高さだそう


境界線としての役割、
そして台風などの強風を防ぐ一方、
夏は隙間から涼しい風も運んでくれるサンゴの石垣は、島の暮らしに合ったもの。

小さな島である与路島にとって、
サンゴは塀を作るための貴重な建築資材でした。

しかし、昭和30年代頃からブロック塀が島にも入ってきます。
”その当時”は、
・ブロック塀のほうが風に対する強度が強く、積み直したりする手間もない
・補修も必要がなく半永久的
・ブロックは幅が狭いので、宅地面積が増えてその分活用できる
・サンゴの石垣の隙間にはハブが住み着くがそれを未然に防げる
などと考えられ、ブロック塀に変えた家が多かったようです。


ですが、ブロック塀が入ってきて約50年が経ち、
ブロック塀をつなぎとめていた内部の鉄筋が
長年の風圧と潮風によってむき出しとなって曲がってきたりしました。

それによって、サンゴの石垣のほうが耐久性にも優れているとの認識が広まったり、
やはり昔ながらの与路島の景観を戻そう!と、
その価値が見直され始めます。


▲与路集落の信川さんがサンゴの石垣について説明


そんな与路島ならではの伝統的景観を守ろうという機運が高まった矢先に、
2009年「島の宝100景」にも認定。
その後、「与路島サンゴ石垣等史跡環境保護組合」が設立され、
保存活動が軌道に乗りだしました。

朝日新聞文化財団や町・県などの補助を受け、
劣化した石垣の復元と技術を伝承しながら、
住民みなさんが保存活動に取り組んでいます。



与路島には約350ヶ所のサンゴの石垣があるとのこと。
サンゴの石垣景観整備事業の全体計画では、総延長874.2mにも及びます。


  *  *


【 与路島の石垣の基本的積み方など 】
  「 瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第4号 『与路島ノート2 / 町健次郎』」より


・使用するサンゴは、すでに死んで白化して石になっているものを海から採集
・サンゴの石は平たいものが「ナバ石」。平たい形がナバ(島言葉で椎茸)のようであることから。
 丸いものを「ガブ石」(魂を指す言葉)と呼ぶ。平たくて積みやすいナバ石を優先して拾っていた。
・サンゴ石の採集は6~10月ごろまで夏場の作業、集落総出の「ユイワク」(共同作業)。
・10年に一回ぐらいのペースで行なっていたが、昭和34年頃を最後にしなくなった(ブロック塀が入ったり、若者減少)




            

・土台には、大きな石・硬い石を置く。川や山にある「マイシ(真石)」を使うのが良いらしい。
・土台部の幅が3尺(90cm)であれば、積み上げた時の上部幅が2尺(60cm)になるようなイメージで、上に行くにしたがって徐々に狭く
・土台が決まれば、手頃な石を重なるように積み上げる。間には、少し大きめの石を重ねる。
 この石と石を渡すような大きめの石を「トオシ(通し)」、「ワタシ(渡し)」、「ルク(貫   く)」という。
・隙間には細かい石片を入れていく。
 これを「ワタ石(石垣を人に見立てると内蔵のようなものだか ら、との意味か)」という。
・石垣は隙間があると崩れやすいので、積んでからも外から石を打ち込んでいく。

  



この石垣は、イラストの積み方と近いでしょうか。土台は大きな石ですね。




こちらのお宅は、海からの風を防ぐため海側を高くして、横側はなだらかに低くなっています。


高く積むには、それだけ土台の幅を広くしなければならず、敷地も必要で作業も大変。
屋根が見える程度の高さにするお宅が多いようです。


石垣の耐久年数は、積む人の技術によって差が出るもの。

不慣れが人が積んだ時のエピソードにこんなものがあります。
「自分の畑周りを手伝いを呼んで石積みし、夕方には完成したので、
その場でお祝いをしようと宴会を始めていた。
ところが突然ガラガラガラッと、大きな音が響いて全部崩れてしまった」(!)。

  *  *

島の石垣積みは、長年引き継がれてきた先人たちの知恵。

技術の伝承を丁寧にしていくことが、
本当に必要ですね。
今が最後のチャンスかもしれません。




ところどころに立てかけられている”ハブの用心棒”。
ハブが出てきた時に叩いたり押さえつけたり。
そんな勇気・・・ありませんね。



一見無造作に積んでいるようですが、強固。素晴らしい。


歩いていると迷路に迷い込んだよう。


民宿も、サンゴの石垣に囲まれていてステキです。


もちろん昔ながらの島の家にはぴったり。


集落のかたが「与路島の道路やお墓などは、京都のように碁盤の目のように綺麗に整備されている。
これも先達のおかげです」とおっしゃっていました。
この清々しく美しい集落の景観は、なによりの誇りですよね。



途中、海岸からは無人島「ハミャ島」が見えます。
白砂からなる吹上浜が美しく、夏はキャンプや釣りで人気。ハブはいません。



たっぷりとサンゴの石垣を堪能した後は、
海岸と反対側のサガリバナの道にも案内していただきました。
夏の夜には、こんなふうに美しく咲きます
7月中~下旬が見頃だそう。



与路島にある「へき地診療所」。
この敷地には、ノロ神が稲作儀礼の祭祀する場「アシャゲ」があったそう。
建物の横にある細い道は、神様が通る「カミミチ」です。

▲ちなみに看護師さんは常勤していますが、お医者さんは2週間に一度、月曜日に来島


かわいい消防車。



昭和29年8月、与路青年団により建立された日本復帰記念碑。
「へき地診療所」の隣にあり、左下は「カミミチ」。



ATMもあります! 与路郵便局。



与路小・中学校。小学生6名、中学生2名の計8名が通っています。
教員も、校長・教頭・養護の先生を入れて8名!

▲学校には面白いものがあったので、あらためて紹介します。


午前中は、与路集落をくまなく回って、公民館に戻りました。
夢中になって歩きまわってお腹ペコペコ。
集落のみなさんと、受講生のみんなで昼食です。


与路集落の中村さんの奥さまがお漬物やお菓子、お茶などを準備してくださって
楽しいひと時となりました。


これで、午前の部は終了です。
与路島のお話は、続きます。




< 参考文献 >
・「与路島誌」 屋崎 一 
・「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第3号」 『与路島ノート1』 町健次郎
・「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第4号」 『与路島ノート2』 町健次郎
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町教育委員会


2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 19:36Comments(2)与路島

2013年01月19日

噂(!?)の古志ダイコン

先日、S.B.Iのマチ博士に、図書館職員のFさんより面白い情報が入りました。

それはFさんの親戚が瀬戸内町の古志(こし)集落で
古志ダイコン”なるものを作っているとのこと。

古志ダイコン、現在市場で見かけることはありません。

この古志ダイコンは普通のダイコンと違い、
表面には色がついているという情報も。

奄美で地域ブランドとして有名なダイコンといえば、
奄美市名瀬の有良(ありら)集落で作っている「アッタドコネ(有良大根)」があります。

なんと南部にもこんなダイコンがあったんだ!ということで、
マチ博士、隊長&現場監督で調査に行きました。


 *


古志部落誌『古さとを語る』に古志ダイコンの記載があります。

古志は昔から農業が盛んで、
戦前は「古志ダイコン」が高く評価されていたようです。

古志ダイコンを定期船で古仁屋に持って行くと、
荷揚げする間もなく仲買商人が船に乗り込んで
その場でセリ合が始まるほどだったと書かれています。

また古志ダイコンのことを「先ず味がよい、色彩もよくやわらかい」ともありました。
色がついているというところが今回の情報と一致しますね。


 * * 


それはぜひ見たい!ということで、
Fさんより紹介してもらい、噂の古志ダイコンを作られているお宅へ向かいました。

ダイコンを作られているおばあさんの娘さんの案内で畑に行くと、
そこには、遠くから見ても確かに不思議な色をした普通でないダイコンが!



近くに寄ってみると、まさに赤紫のダイコンではありませんか! 



はしゃいでいると、実際に畑をやっているおばあさんがやってこられました。

お話を聞くと、現在は80代ですが、300坪の畑を一人で管理されているのだとか!
畑の野菜はみんな元気で活き活きとしています。




この古志ダイコンを作っているおばあさんから話をうかがい、ダイコンを観察してみました。

特徴として
・色がつくのは地上に出ている部分の表面のみ。ダイコンの中身と土中は白色。





・普通のダイコンに比べて葉の色が濃い。さらに茎の部分にもうっすらと紫色が入っている。



・昔の古志ダイコンはもっと細長くて濃い紫色だったが、最近は色が薄くなってしまった。
これはタナグリしたため。(タナグリとは他のダイコンの花と受粉して混ざり交配していくという意味だそうです)

・以前、他の集落の人に種を分けたが、そこでは植えたダイコンに色がつかなかった。

使い方としては
・切り干しがいい。
・種がいっぱいできるので、毎年一区画残して種を取り、翌年種をまいて葉が出たところで収穫することが多い。
とのことでした。



お話を聞いた後にひとつお願いしたら、快く古志ダイコンを分けていただけました。
なかなか食べることができないので、いくつかの料理にしてみました。


普通のダイコンと古志ダイコンです。こうやって並べるとやっぱり違いますね。
古志ダイコン(下)と、普通のダイコン(上)



おばあさん曰く、「既に時期が過ぎて花が咲きそうなので皮が硬いかも、
皮を厚めにむいて食べてね」ということでした。皮をむくとぱっと見は普通のダイコンですね。 




< 作った料理 >

◎焼き魚と大根おろし (隊長談)
「ダイコンをすりおろすと収穫したばかりからか、すごくみずみずしい大根おろしができました。使ったのは先端の方ですが、苦味はなくピリッとした辛味がありました。焼き魚と合いますね。またおソバにも合いそうです」。







◎切り干し大根 (隊長談)

ダイコンを切った直後、短冊状に切り、ロープにかけて干します。



4日も経つといい感じにしおれています。



5日後にはほぼ完成。割いてバラバラにしました。 



「さすがに皮を向いて作ると見た目は普通の切り干しですね。
できた切り干しダイコンを、水に戻し他の野菜と煮付けてみました。
食感が普通の切り干しより弾力が有るような感じでしたね」。




◎生でそのままかじる (現場監督)
「とりあえず薄く輪切りして生でかじってみました。
皮が赤い上部と先端の方を両方かじってみましたが、普通のダイコンより辛味とアクが少ないような気がします。もう少し早い時期なら生でかじることも可能では?というような味です」。


◎水炊き (現場監督)
「大きめに輪切りして昆布と与路の塩でシンプルに炊いてみました。
皮をむかずに炊いたところ、赤色がほとんど抜けて、見た目は普通のダイコンのようです。
味は、一緒に炊いた普通のダイコンと大きくは変わる感じがありませんでしたが、普通に美味しかったですー。
ただちょっと残念なのが、もうすぐ花の咲く時期で、食べるにはちょっと遅いことから、かなり固くなっていました」。




最後に
「平成17年度 国土交通省 奄美群島生物資源の産業化・ネットワーク化調査」
http://www.amami.or.jp/kouiki/seibutsusigen/detail_vegit/vegit_detail_21.html
に古志ダイコンの記載がありました。

ここでは「耐暑、耐病性が強く、早まきでもウイルス罹病症状が発生したことがないという」と書かれています。

大根に関しては、アッタドコネと古志ダイコンの2つしか取り上げられていないので、
地域限定の珍しい品種だったと思われます。

ただ、一般的に古仁屋などに出回っていたのは戦前の話のようで、
残念ながら、どの時代からこの赤いダイコンが入ったかわかりませんでした。

品種としては、現在一般的に出まわっている赤大根の紫色のにすごく似てますね。

今回、ダイコンを作られているおばあさんから、
「種ができたら置いておくからね」と言っていただけました。

赤くなるかはわかりませんが、
種をもらったら図書館の庭で体験的に作れればと思います!


現場監督 M


< 参考文献 >
・『古志部落誌 古さとを語る』 瀬戸内町教育委員会(昭和55年発行)





2013.01.11 瀬戸内町 古志

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 11:50Comments(0)奄美大島

2013年01月16日

シマの正月 門松

松の内や小正月も過ぎて
家々にあった門松も姿を消し、
ふだんの集落の様子が戻ってきました。

新年を迎えるにあたって
家の門口に建てる門松。
お正月の象徴的なものですよね。



わたくしのような島外出身者にとって門松と言えば、
切り口が斜めの太い竹を中央に3本立て、回りに松などを飾っているもの。
先日おうかがいした油井小学校で作っていた門松をイメージします。

9年前、奄美で初めて迎えた正月に見た門松は、
それまで見ていたものと違っていてビックリしました。




瀬戸内町も中心部の古仁屋では、飾っているお宅が少なくなっているようですが、
隣の清水集落では、ほとんどの家で門松をしています。

それぞれに飾り方が違い、興味深いので見て回ってきました。

よく見かけるのが松、竹(細く笹の部分)、ゆずり葉を素朴に束ねたもの。
そして椎の木を入れているお宅もあります。



昔は門口から入口まで化粧砂として、
白砂を撒くのが習わしだったようです。

そして山のように白砂を盛って、
椎の木で芯を作り、藁縄で松、竹、ゆずり葉をくくりつけるのが伝統的なやりかた。

「松」 永代の栄えや長生き
「竹」 すくすく伸び強い
「ゆずり葉」 親から子へと代々譲る
「椎の木」 材木として貴重な木で、実がたくさんなり繁栄する

という意味や願いを込められているとのこと。




現在は、門もコンクリートで固められているところも多いので、
筒状のものに門松を入れて、そのまわりに砂を盛ったり。






こちらは、植木鉢に白砂を入れて門松を作っています。
このやりかたをしているお宅が多いようですね。






清水集落は、目の前が海岸なので
どこも白砂をたっぷりと使っていました。











木製の桶風、プラスチック型。


なるほど、土のう袋を使って。



門松専用でしょうか? 筒状ポール立て型。
ふだんは見かけないので正月だけ出していらっしゃると思います。



唐の時代の中国で、門に長寿を象徴する松を飾ったことが起源だという説もあるので、
”門松”の本来の姿はこのお宅のように松だけなのかもしれませんね。



喫茶店の「こんぶち」さんも松のみ、なんだかカワイイ!



清水の厳島神社にも門松がありました。


やはり白砂が盛られていますね。



島の門松スタイルに、本土の竹3本を組み合わせた
”奄美・本土折衷門松”を発見!


切り口が「笑口」のように見えて、
縁起がいいですね。



篠川集落では、門松の上にウラジロの葉をひっくり返してかける
(悪者に追いかけられた時、ウラジロの下に隠れて助かったからと伝えられている)
久慈集落では、家と同じように墓地にも松や椎の木を立てるという云われのあるところも。

加計呂麻島の三浦では集落の海岸が白浜でないため、
わざわざ遠くのアハセというところまで小舟で出かけて
白砂を積んで来て庭にばらまいていた時代もありました。

清める意味合いでしょうか、
海が身近にある島では
白い砂は正月行事に重要な存在だったようです。



瀬戸内町でも中心部の古仁屋では設置スペースなどの関係からか、
こんな門松シールを貼っているお宅も多いです。
こちらのシールは全国的にも松や竹を切らないようにと
一時期、自治体から全戸に配布したり流行ったことがあるようです。



奄美大島北部の笠利町出身、われらS.B.Iカナエ隊長の実家では、
松、竹、ゆずり木が基本。それに足すならサカキ。
椎の木は使わないそう。

同じくS.B.Iマチ博士の与論島の実家では、門松は松と竹。
子どもの頃は1キロ先の海岸から白砂を運んでくる係を命ぜられ、
そのせいで肩幅が狭くなった(!?)と、辛い思い出のよう。

与論島では、松くい虫の被害などもあり年々松が少なくなっており、
今年の年末は「よその家から松を取らないように!」という警察の放送があったそうです。
そのため、マチ博士は「300円出して松を買った」と言ってました。

見て回った清水集落でも、
「去年までは自分たちで山に材料を取りに行ってたけど、
今年は隣の集落の人から買った」というお宅も何軒かありました。

島の暮らしに身近にある材料を使っていた門松ですが、
近年は手に入れるのも
大変になってきているようです。



島も内地も門松の違いがあり
事情も少しずつ変わってきていますが、
「新しい一年を気持ちよく迎えたい」という想いは不変のものですね。






< 参考文献 >

・「瀬戸内町誌(民俗編)」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会




2013.01.06

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 21:59Comments(2)行事・イベント

2013年01月08日

シマの正月 ウディ飾り

あけまして おめでとうございます。
2013年も、「あまみヒギャジマンプロジェクト」をよろしくお願いいたします。

新年早々の嬉しいニュースとして、
奄美新聞さんの新年特集号<第4部>に当ブログのことを掲載していただきました!

われわれS.B.I(瀬戸内町文化遺産活用実行委員会)の
活動内容なども触れていただいてますので、ご覧いただければ幸いです。



 
また昨年末に、「シマの三献 写真募集」とお願いしたところ、
たくさんのかたにご協力いただきました。ありがとうございました。
整理してから、あらためてブログで紹介します。

が、まだまだ写真は絶賛募集中!!

メール( bunkaisan@gmail.com ) または、ヒギャジマンプロジェクトのFacebookまでお願いいたします。

とくに住用のみなさん! 住用がゼロです・・・。
ぜひとも、よろしくお願いいたします!!!

詳細はこちら → 「お宅の三献おしえてください!」


  * 

さて、新年明けて、
「瀬戸内町ならでは」のお正月を求めてうかがったのは、
清水集落の代美原(よみはら)さんのお宅。

そこで拝見した、おめでたいお正月の床の間飾り。

なんと、一番右に飾っているのは、シマグチでウディ、野菜の蕪(カブ)なんです!




カブをそのまま剣山にさし、
葉っぱやお花もそのままついている状態。



床の間に飾っているものを右から順番に見ていくと、
カブ、鏡餅とダイダイ、お花(ユズリ葉、松、ナンテン、菊)などが並んでいます。

「カブ(蕪)、ダイダイ(橙)、ユズル(ユズリ葉)」。


つまり、「株、代々、譲る」との語呂合わせ。
家の財産などを子孫に代々譲るという縁起を担いでいるのです!

また黄色い花を「黄金花(クガニバナ)」と呼び、
正月にふさわしい飾りものとして、たくさん咲いているものを選びます。

代美原さんのお宅では、このカブは家の畑でとれたもの。
31日に飾り、11日の鏡開きの時に下ろします。
黄色い花は、水を毎日かえるので
大晦日から11日までイキイキしてるとか。


 * *


その他、床の間に飾るものとして、
今ではほとんど見られなくなったようですが
「雪松(ゆきまつ)」があるそうです。

雪松とは、床に枝ぶりのよい松を切って生け、
その枝に綿などをちぎって乗せて
まるで松の枝に雪が積もっているように見せたもの。

管鈍(くだどん)では、真っ白な雪をふりかけることによって
清らかな様子をあらわしたと伝えられています。

平地では、雪が降ることのない奄美。

「一面、銀世界」。
静寂、荘厳な雰囲気への憧れでしょうか。

南国の島で、
雪に見立てた床の間飾りをするというのが、なんとも興味深いですね。


 * * *


突然おうかがいしたにもかかわらず、
快く写真を撮らせてくださった代美原さん。

昭和6年、7年生まれのご夫妻で、
ご主人は、以前集落の区長をしていらしたので、シマのことをいろいろと教えてくださいます。

この日は写真を撮り終わると、
奥さんが「ほらほら、お茶でもどうぞ」と、
こーんなにお茶うけまで用意してくださいました。



奄美に移住して10年目を迎えるにも関わらず、
新年早々、初めて見るシマの正月風景。

今年もまだまだ新しいものに出会えそうで、楽しみです。

みなさま、よろしくお願いいたします。





< 参考文献 >

・「瀬戸内町誌(民俗編)」 瀬戸内町
・「瀬戸内町の文化財をたずねて」 瀬戸内町教育委員会





2013.01.06

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
  


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