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2018年05月17日

瀬戸内町内の戦争遺跡を観光する皆様へ


いつも「あまみ ヒギャジマン プロジェクト」をご覧いただきありがとうございます。


***

最近,「瀬戸内町の戦争遺跡」についての問い合わせが増えており,
このことに関しまして皆様へお知らせとお願いがあります。


本ブログでは,これまでに戦争遺跡についての情報を掲載しておりますが,
これらの箇所は『観光地』として紹介しているものではありません。

公園化されていない戦争遺跡での観光は,不法侵入になる場合もありますので,ご遠慮下さい。

また、戦争遺跡は70年以上経過している施設跡であり,いつ崩落するかわかりません
さらに,ハブの出現崖下への転落の可能性も非常に高いです。




以上の事から,瀬戸内町役場より,
下記の点についてお願いがありましたので,お守り下さい。


≪瀬戸内町役場からのお願い≫

①戦争遺跡での観光は,公園化された戦跡公園のみでお願いいたします。
 (ただし,加計呂麻島・安脚場戦跡公園への道路は,2018年5月現在,通行止めとなっております)

②戦争遺跡への観光は,ガイド付きでお願いいたします。
 (ガイドのお問い合わせは,瀬戸内町観光協会へお願いいたします)

③戦争遺跡は,70年以上経過している施設であり,崩落の危険性が非常に高い施設があります。
 また,ハブの危険性もありますので,危険な個所への立ち入りは絶対に行わないで下さい。



瀬戸内町役場観光課
瀬戸内町教育委員会社会教育課  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 14:06Comments(0)奄美大島請島与路島戦争遺跡

2013年10月04日

隊長鼎の夏休み思い出日記(与路島編)

平成25年 7月 19日 (金) 晴れ

隊長鼎は、奄美大島の南にある与路島へ行ってきました!

目的は、夜中に咲くあるものを見るため。



宿で出された、ご馳走を食べながら、夜になるのを待ちます。
宿でのご飯は、シマでとれる食材を使った、豪華な夕食でした
010番外宿のごちそう
010番外宿のごちそう posted by (C)SBI





さあ、夜になりました。
夜の与路島。サンゴ石垣も夜だと、なんだか威圧感があります。
立てかけてある、「ようじんぼう」のお世話にならないように、気をつけて出発です!
※奄美大島各地で見かける「ようじんぼう」 ハブが出た時に対処する木などで作られた棒です。
001夜の与路島
001夜の与路島 posted by (C)SBI





目的地は、サガリ花並木!!
あと、0.1kmです!
002向かうのは
002向かうのは posted by (C)SBI





ついに登場、サガリ花!!
白く可憐な花たちが、いっぱい咲いています!!
003サガリ花
003サガリ花 posted by (C)SBI
004小さな花
004小さな花 posted by (C)SBI





夜サガリ花見物の先客も綺麗な花を愛でていました。
005夜サガリ花見物
005夜サガリ花見物 posted by (C)SBI





このサガリ花、いい香りがします。
006いい香り?
006いい香り? posted by (C)SBI





近くで見ると、まるで白い線香花火のようです。
007小さな花は花火のようです
007小さな花は花火のようです posted by (C)SBI





地面に散った花たちも綺麗です。
008散った花もきれいです
008散った花もきれいです posted by (C)SBI





見物に行った、7月19日は、残念ながら満開の時期は過ぎていましたが、
それでも、大満足な夜サガリ花見物になりました。
009満開は過ぎてましたが、きれいでした。
009満開は過ぎてましたが、きれいでした。 posted by (C)SBI






今回の番外編!

まずは、イワノリの吸い物!!
シマでは、ほとんど見かけることのない、イワノリ。与路島では、採れるようで、吸い物でいただきました。
アオサの吸い物と違った風味で、絶品でした!!
011番外宿のごちそう!シマでは珍しい岩ノリ!!
011番外宿のごちそう!シマでは珍しい岩ノリ!! posted by (C)SBI



お次は、巨大メンガイ!
昔、腕輪などに使われた、メンガイですが、こちらは超巨大!!
隊長鼎の首輪?も作れそうです。
012番外でかいメンガイ!と隊長
012番外でかいメンガイ!と隊長 posted by (C)SBI



130719 瀬戸内町 加計呂麻島 与路島
S.B.I 隊長 鼎  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 06:30Comments(0)与路島

2013年09月16日

「与路島」豊年祭・敬老祝賀会

旧暦8月に入り、
瀬戸内町は豊年祭シーズンを迎えています。


9月8日(日)、
与路島の与路(よろ)集落で
豊年祭ならびに敬老祝賀会が開催されました。





豊年祭は、もともとシマの人々の無病息災や五穀豊穣を祈願するもの。
一年の疲れを癒やすための最大の娯楽だったと言われます。

今では敬老会を兼ねるところが多く、
年中行事の中でもシマ(集落)が最もにぎわう日。



与路では、以前は豊年祭を旧暦8月15日に必ず開催していましたが、
島外在住の出身者や関係者が足を運びやすいよう
平日に当たる場合は、
旧暦8月15日より前の日曜日に設定しています。


昨年の豊年祭は、残念ながら台風のために中止でした。

今年は、台風が来て延期してもいいように、
かなり早めの日にちにしたそうです。

みんなの願いが届いたのか、今年は快晴!




与路島は、人口96名、世帯数56戸(2013年8月末現在)。

島に集落は、
与路集落がひとつ。

学校は、与路小中学校があり、
現在は、小学校4名・中学校3名、
教職員8名が在籍しています。


 * *

準備も整い、
いつもは静かな集落の
にぎやかな一日の始まりです。





豊年祭を楽しみに
与路島外に住んでいる出身者や関係者が数多く帰省してきます。

彼らを運ぶのが、
奄美大島本島と、与路島を結ぶ「定期船せとなみ」

同じ瀬戸内町内ながら、
奄美大島本島の古仁屋港からお隣の請島を経由して、
約1時間半かかって与路島に到着。

この日も、様々な方が
定期船せとなみに乗ってやってきました。



与路島に、旅人がやってきた時の対応にこんな言葉があるそうです。

「ユルッチュヤ オーレ オーレ」

意味 : 与路の人は、「来いよ、来いよ」と歓迎してくれる

そんな言葉どおり、
「オーレ、オーレ~~!」と、
集落のみなさんが、チヂン(太鼓)やハト笛とともに、
下船してくる人々を踊って歓迎します。





下船してくる方々も、みなさん笑顔!

シマに戻ってきた喜びを、
手踊りで陽気に応えます。




12時になり、
いよいよ豊年祭ならびに敬老会の開始。


まずは、開会式です。

国旗掲揚や来賓の祝辞、敬老会代表の謝辞などがあり、
その後、余興に入っていきます。

今年の敬老者は27名。そのうち出席者は10数名。

敬老者に楽しんでもらおうと、
様々な余興が準備されています。




祭りの中心となるのが土俵。

この軍配の回りにある4つの柱は、
「イビガナシ」をあらわしているそう。

「イビガナシ」は、
瀬戸内町方面で、シマをたてた守り神と言われています。

与路では、イビガナシをお供して
一緒に豊年祭を行なうという意味があるそうです。


 * *


青壮年団による力強い「振り出し」。
厳かに儀式は、はじまります。

ほら貝を吹き鳴らし、
「ヨイヤー、ヨイヤー」のかけ声とともに入場。
塩で土俵まわりを清めていきます。





それに続く2人が担いでいるのは、焼酎甕。
現在では、この焼酎甕には焼酎の2合瓶が入っており、
敬老者などに振る舞われていました。





奄美が本土復帰(昭和28年)ごろまで、
この焼酎甕を豊年祭前日に青年団が担いで、
集落の各戸で焼酎をもらってまわっていました。。

一戸あたり一合ずつ提供する決まりになっており、
翌朝から自由に飲まれ、行事が終わって打ち上げの宴会が終わる頃に
ちょうどすべて飲み干される分量になっていたそうです。


また以前、与路島では、
豊年祭当日に「い草」を床の間や仏壇にいける習慣があったそうですよ。


土俵入り


 
土俵入りのあとの相撲は、
前相撲、青壮年相撲、個人戦相撲優勝戦、結び相撲と続きます。


「ヨイヤー、ヨイヤー、サッ」
気合が入ります。




相撲は、ちびっ子同士、親子対決などもあったり。




さまざまな取り組みに、会場のみなさんが盛り上がりました。




この一年に産まれた新生児の「土俵入り」もありました。
赤ちゃんの足を土俵の砂につけて、健やかな成長を祈ります。

大島紬の化粧まわしもステキですね。
土俵の上では泣いて会場を沸かせていましたが、
終わった後はこの「どーだ!」と言わんばかりの表情。大物の予感です。




婦人会による余興も。




踊りの練習をし、また準備や接待で大忙しの婦人会のみなさん。
この日を無事に迎えてホッとひと安心だと思います。




敬老のみなさんも楽しんでくださっていてなにより。




飛び入り参加では、名瀬や古仁屋在住の与路会のみなさんが、
奄美群島本土復帰60周年を記念して踊りを披露。



その後は、会場総出、
土俵の回りにぐるりと輪になって八月踊りです。






みなさんの唄と踊りの素晴らしいこと!



唄える人が少なくなってきて、
伝統の継承が難しくなりつつある集落もあります。

与路の八月踊り保存会は昭和16年に発足。
集落区長の保島さんは、「当時の人たちが30人以上育っていて、
唄える人が数多くいるので当分大丈夫」とおっしゃっていたのがよく分かります。






そして相撲の個人戦優勝戦などがあり、
閉会式を経て、
無事に「与路地区 豊年祭ならびに敬老祝賀会」は終わりました。


**


島にたくさんやってきた人々も、
そろそろお別れの時間。

16時には、古仁屋港に向けて、
定期船せとなみが出港します。

ここでも集落の方々が、最後の見送り。




帰る人々も甲板に出て、手を振りながら別れを惜しみます。




「またオーレよ~~~!」。




みなさん、せとなみが見えなくなるまで、お見送り。




にぎわっていた島に、
また静かな時間が戻りました。


 * *


与路では、「食べてるねー?」「飲んでるねー?」、
「与路に来て、お腹すかせて帰ったらいかんよー」と、
みなさんに気にかけていただき、
とても楽しい時間を過ごせました。


ちなみに、与路小中学校の運動会は、
9月22日(日)です!



与路島のみなさん、
いろいろとご協力していただき、本当に感謝いたします。
ありがとうございました!




< 参考文献 >
・ 「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町
・ 「与路島誌」 屋崎 一 
・ 「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第3・4号」 『与路島ノート 1・2』 町健次郎
・ 「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第2号」 『請島ノート』 町健次郎






2013.09.08
瀬戸内町 与路島 与路

奄美.asia / Y.K
  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 09:22Comments(0)与路島

2013年02月05日

与路島の戦跡 

第4回島案内人育成講座で行った与路島。

午後は、与路島の山のほうにある戦跡を見学しました。


▲第二砲台跡


瀬戸内町の大島海峡は
穏やかで天然の良港として知られ、
戦時、南方戦線へ向かう艦船などの中継基地として、
町内各地に軍事施設が整備されていきました。

第二次世界大戦中、
ここ与路島にも潮早(シュビヤ)山一帯に
旧海軍防備隊基地が構築されました。

その戦跡は、与路集落から車に揺られて山のほうへ約10分。
降りてからもどんどん山の中へ歩いて入ったところにあります。

この見学のため、集落のかたが歩きやすいよう歩道を整備してくださってました。
前の人を見失うと、途端に迷ってしまいそうな山道です。



昭和19年10月20日頃、潮早山に
佐世保海軍所属の奄美大島施設部
(加計呂麻島の三浦集落にあった設営隊)が工事を開始。


< 工事内容 >

・第一砲台、第二砲台
・地下弾薬庫
・発電所
・探照灯(照空灯)設置
・兵舎、その付属施設など

工事の人夫は、技術員を除き、与路島の人々を動員。
集落全世帯の割当て作業で、無報酬の労働でした。

なんと小学校2年生以上の児童が駆り出され、
下の黒ん間の浜から山頂の砲台現場まで、
毎日、砂や砂利などの材料を運んでいたとか。

現在、70歳代後半以上のかたは、この強制労働にあたってたわけですね。


▼第一砲台跡。ソテツや木々に覆われて、周囲の自然と一体化してますね



工具は、ツルハシ、スコップ、ジョレン、山鍬などの工具、
モッコ、背負いザルなどの運搬用具が主力の前近代的な作業状況。

最も苦労したのは、
大砲(約25トン)二門を海岸から砲台のある山頂(標高約200m)まで運搬したこと。

運搬用に開設した道路に道板を敷き、
2台のカグラサン(人力ウインチ)を用いて巻き上げ、
20日間以上かけて現場まで引き揚げ設置。


< 揚陸された軍備 >

・15cm砲 二門 
・13mm機関砲 一門
・7mm 機関銃 7門
・機関銃 1丁
・小銃 20丁
・てき弾筒 2筒
・地雷 300発
・手投弾  


▼第一砲台跡の中に入って、与路集落案内人の信川さんのお話をうかがいます



この防備隊基地の構築工事は、
昭和20年3月中旬頃には終了。

しかし備砲や探照灯は実戦に使用されることなく、
昭和20年8月15日に終戦を迎えます。

終戦を迎えた後、昭和20年9月に米軍が武装解除に来て、
黒ん間の浜に弾薬類を運び、すべての武器弾薬は海中に投棄。

大砲は砲身に弾薬を詰め込んで爆破し、探照灯も破壊。


この探照灯はシンガポールのイギリス軍要塞から運搬されたもので、光達距離が18km。

終戦後、一晩だけ夜空一帯を試験照射。
その明るさは真昼より鮮明で夜空を眺めた人々は感動したといいます。

また兵舎2棟は校舎として学校に譲渡されました。



▼第一砲台の中。約70年前のものですが、非常に強固な造り



▼なんと奥まで行くと、コウモリがいっぱい!
オリイコキクガシラコウモリのようです。




海軍防備隊が与路島に駐屯したのは、
昭和19年11月から、翌20年10月までの約1年間。

砲隊・照空隊合わせて、55名の隊員が駐屯。
現地招集で与路出身が3名入隊。

隊員の日常勤務は、敵の上陸に備え戦闘準備が主でしたが、
地域との交流を図り、田植えの手伝いなど住民との交流もあったそう。
なかには、島の娘と恋に落ちて、その後家庭を持った人も。
極限の中にあって、こんな話があるのはちょっと救われますね。


▼こちらは第二砲台。本当に自然なカムフラージュ






与路島も空襲を何度も受けています。

昭和19年10月に初空襲。
昭和20年3月13・15日、米軍グラマン戦闘機による空襲が連日のように始まり、
集落の90%が焼失しています。

人々は山の中の疎開小屋や、防空壕の中で生活をして
夜間は灯火管制下で闇の中を往来していたそう。




▼戦跡から戻る途中、ところどころに見晴らしのいいところが。
見えるのは加計呂麻島



▼この「黒ん間浜」から、工事の材料となる砂などを山頂まで運搬。
どれだけ大変だったことでしょう・・。
一番右にうっすら見えるのが加計呂麻島、そのとなりに須子茂離も見えます



▼ここからも「ハミャ島」が見えました



▼砲台跡付近に建てられていた記念碑。
「戦争体験を風化させまい」と、瀬戸内町大正会が建立。



誰も迷子になることなく、無事帰路につくことができました。



与路島の戦跡には、
現在、砲台や敷地、側壁隧道、
弾薬庫などが残っています。

戦争で使われたものがそのまま残っていて、
その実物を見ながら、戦争を経験したり工事に携わった世代から話を聞くことは、
迫力があり、戦争の話がより身近なものとして感じられます。
本当に貴重な体験でした。


 * *

この日は波も荒いということで、
予定より早く古仁屋に戻ることになりました。

与路島を案内してくださった、
(左から)保島さん、信川さん、けんちゃん、中村さん。
港までお見送りしてくださいました。


いつも本当に温かく迎えてくださり、
丁寧に与路島を案内して、
島のさまざまなことを教えてくださいます。


戦争、そしてサンゴの石垣積みなど
知っている世代がどんどん少なくなってきています。

もっともっと与路島のことを学び、
島のことを保存・記録をしていかなければと思いました。


待合所の「また おーりんしょれよ」(また、いらっしゃい)の文字。うれしいですね。


琉球時代、海上交通の要所であった与路島。

よそ者・物をオープンに迎えながら、
自分たちの文化はしっかりと守る気風があってこそ、
独自の文化・風土が生まれたのかもしれません。

与路島のみなさん、
本当にありがとうございました!





〈 参考文献 〉
・「 与路島誌 」 屋崎 一
・「 与路校創立百二十周年記念誌 」 与路校創立百二十周年記念誌刊行委員会
・「 瀬戸内町誌 歴史編 」 瀬戸内町




2013.01.17 瀬戸内町 与路島

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内





  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 11:40Comments(0)与路島

2013年02月01日

与路島の民具 / 与路小・中学校

与路島にひとつだけある学校、「与路小・中学校」。

明治12年に、与路島下等小学校として設立され、
創立130年以上を経ている歴史ある学校です。



現在は小学校6名、
中学校2名の合計8名。

教員も、校長・教頭・養護を含めて8名と同じ人数(!)。

校庭も手入れされていて
とても気持ちのいい学校です。






島案内人育成講座で、
集落を散策した際に、学校にもお邪魔しました。

与路小・中学校には、
島の民具が数多く保管・展示されているのです。


廊下には、厨子甕(ずしがめ)がズラリ。




「厨子甕」は、
奄美群島や沖縄で使われていた、いわゆる骨壷。

かつて土葬や風葬をして数年が経ったのち、
遺骨を洗って厨子甕に納骨していました。

現代の火葬用の骨壷より、サイズはかなり大型。

昔は、夫婦合葬や親子合葬なども一般的だったため、
2人分の骨が入る大きさになっています。

材質は主に、石灰岩製や陶器製の2つ。
こちらには、陶器製のものが並んでいました。
沖縄の壺屋で焼かれたものが奄美群島まで運ばれてきてたんですね。


形は、「甕型(かめがた)」と、「御殿型(うどぅんがた)」があります。

こちらは「甕型」。高さ約80センチ。

左側のものは、「ボージャー厨子」と呼ばれているもので、
形から”坊主”に似ていることからボージャーと名付けられています。
確かに、丸みが似ていますね。

また小さく開いている穴は、魂の出入り口とのこと。
ここから出入りして、旧盆に戻ってくるのでしょうか…。



こちらは「御殿型」。

釉薬をかけないで焼いているものを沖縄では荒焼(あらやち)と呼んでいます。
荒焼のものは、御殿型の初期に出現するタイプです。
高さは約60~70センチほど。




正面には、蓮華と法師像が。



瓦模様を刻んでいないこのタイプが、御殿型でも古いタイプです。


骨壷と言えば、ただの”入れ物”というイメージでしたが、
厨子甕は、装飾されていたり屋根瓦が刻まれていたり。

まさに”あの世の家”。

こうやって死後の世界にも立派な家を準備する
島の人々の先祖への気持ちは、素晴らしいですね。

これらの厨子甕を見て、わがS.B.Iの隊長は
「どれも良い品。町立郷土館にほしいぐらいです」と、呟いてましたよ。




またこちらの部屋には、多岐にわたる民具が展示されており、
学校にこのようなスペースがあることに驚きました。


器や壺、収納道具、農耕の道具など、
島の人たちが暮らしていくなかで使っていたさまざまなものが収められています。


中には、イ草などで作る筵(むしろ)を編む道具もありました。

与路島では、戦前から戦後にかけて、各家庭でイ草を栽培し、
筵(むしろ)を自給自足していた時代が。
昭和20年代には、製筵所を家業とした人もいたそう。
今でも3種類のイ草が集落に自生しています。


大島紬の糸繰りの道具なども


酒器、器など日常のもの。
右手前にあるのは「煙草盆(たばこぼん)」、と言うのですね。
煙管(きせる)でのタバコの吸い方も
ほとんどの受講生は知らなかったため、与路集落の信川さんに教えていただきました。








黒糖づくりに使う道具も。アクをとったり、かきまぜたり。
島でかつて盛んに行われた黒糖づくり。
その道具がいくつもありました。


与路小・中学校では、おとなり請島の池地小・中学校と集合学習をしており、
キビ刈りなどから黒糖づくりの体験をすることもあります。


別室には、サタグルマ(鉄輪圧搾機)も!

昔は、馬や牛をつないでこの棒を回しサトウキビの汁を搾っていた道具。
学校の黒糖づくりでは、子どもたちが押して体験。
サタグルマが学校にあるなんて、与路島ならではですね。


余談ですが、与路島から寄贈された鉄輪圧搾機が
瀬戸内町立図書館・郷土館にも展示されています。





S.B.Iの隊長曰く、
『いろいろな資料の中には、遺跡から出たと思われる遺物が!
中国の焼物の青磁、白磁。徳之島で焼かれたカムィヤキも。
南蛮や薩摩焼などさまざまな焼物が無造作に置いてありました。

現在は、アクセスが大変な与路島ですが、
このような資料を見ると、
重要な海上ルートの一つだったことが分かります。

実は、与路島は遺跡の宝庫。
今後、大発見があるかもしれません』。



学校の一角にあった「水がめ」。
昭和8年、集落の人たちが寄付して作ったもの。
毎日、子どもたちが担当を決め水を汲み、ここに貯めて使用。
「いっぱいになるまで貯めるのが大変だった」と、案内人の信川さん。



水がめの横にあるのは、
与路島出身の親ノロ「大アムシャレ」の碑。


「大アムシャレ」とは、
奄美が琉球王国に服属していた時代、
最高神官の次の位に任命された親ノロのこと。

琉球王国の南北3カ所のみ配置され、
親ノロとして、その地域のノロを支配し、祭政一致の政策を司っていました。

与路島は、当時、徳之島の山(サン)と同じ行政区分で、
ある時、与路島出身の人物が、大アムシャレに任命されました。

それが、与路の津止家の生まれ、本名クゥイチャン。

その与路の大アムシャレが首里城の王府に参内した際、
連れていった姪のタンムイバンに悲劇が起こり、
琉球からの帰路、与路島の近くになって大アムシャレは姪の死体を抱え入水自殺。

村人が深い悲しみの中、
サンゴ石を海から一度も地面に落とさないようにずっと手渡しで運び、
ノロ墓を造って大アムシャレを丁寧に葬ったとあります。

本来の大アムシャレのノロ墓は、もっと山の中にあるそうですが
行き来するのが大変だろうとのことで、
この場所に碑を建立し、話を伝えています。


高位高官の親ノロが与路島にいたというのも、
当時の与路が琉球王朝の中で
重要な位置づけであったと考えられますね。




学校に、これだけの民具や資料が保管・展示されてあり、
子どもたちが身近に昔の島の暮らしに触れることができるのは、素晴らしいですね。

与路島にまつわる貴重なものを見せていただきました。


学校に興味があって中を見学したいかたは、
ぜひ職員のかたにひと声かけてください。







〈 参考文献 〉
・「 与路島誌 」 屋崎 一
・「 与路校創立百二十周年記念誌 」 与路校創立百二十周年記念誌刊行委員会




2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内





  


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2013年01月25日

与路島の門松・松飾り

シマの門松を紹介したあと教えてもらった、
与路島での「門松を外した後にする独特の風習」。




1月17日、島案内人育成講座に同行し
与路島の集落を散策していた時に見ることができました。

それが、この松の飾り



与路島では、
お正月に飾った門松を1月14日の干潮時にいったんはずし、
その跡に、はずした門松から松の芯や先のほうだけを取って飾っておく慣わしがあるそうなんです。


















サンゴの石垣で囲われたこちらのアパート。



入口はブロック塀でしたが、やはり両側に松だけが飾られていました。



与路島の門松自体は、
先日見て回った瀬戸内町全体に共通するものと同じ。

松、竹、椎の木、ゆずり葉などを束ねたもの。

ちょうどアパートの入口に、外した門松がありました。
松の先のほうがなくなっています。
おそらくその部分を飾ったと思われます。




14日に正月に飾った門松をいったん外し、
松だけを飾るのは
小正月を迎えるためなんだそう。







14日に飾った松は、とくに外す日が決まっているのではなく、
自然となくなるまでそのままにしておくとのこと。



与路島では、門松を立てるためのパイプが埋め込まれているお宅が多かったです。
もちろん白砂は周りに盛って。






こちらの特徴的な門口にもパイプが埋め込まれてあります。
松が自然となくなったら、正月まではゴミなどが入らないようにアイスのフタ(!?)などをつけておくとか。
直径がちょうどいいサイズかもしれませんね。

こちらにもちゃんと下に白砂を盛っていますね。

素晴らしいサンゴの石垣です。



正月飾りとして、与路集落の公民館には、
枝ぶりの立派な松も飾られていました。



かつて与路島で盛んに行われていた黒糖生産。
先祖代々受け継がれてきた貴重な地場産業でした。

とくに2月から3月は、製糖の最盛期。

いたるところにサタヤドリ(製糖小屋)があり、
そこに家族全員で寝泊まりしながら作業していたほど、島は活気があり忙しかったといいます。


『 与路島誌 』 (著・屋崎 一)によれば、
「15日を小正月(クヮショウガツ)と称し、
各家庭では丼にシュウクィ(肴)を拵え、忘れかけていた正月気分を盛り返す。
この日の晩は、三味線・島唄・ナンコで賑わい家廻りも各所で行われた」。

また、

『瀬戸内町誌 (民俗編)』には、
「十五日を過ぎたら、村の人はほとんどの人が山の砂糖小屋に泊りこみで作業に出かけるので、
村の人が半分ほどになった。だから行事は十五日で終了した」との記述がありました。

島の人にとって正月から1月中旬のこの小正月までが、
自宅でゆっくりとできる
わずかな時間だったのかもしれません。

与路島の松飾りは、
そんな小正月を迎える象徴的なものでした。








< 参考文献 >
・「与路島誌」 屋崎 一 
・「瀬戸内町誌 (民俗編)」 瀬戸内町教育委員会



2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内



  


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2013年01月23日

与路島 散策 ・サンゴの石垣

瀬戸内町の南にある、
与路島(よろじま)へ行ってきました。



今回も、瀬戸内町役場まちづくり観光課が主催する
「第4回 島案内人育成講座」に同行させていただきました(第3回の須子茂集落散策→こちら


瀬戸内町は、奄美大島部分と、大島海峡を間に挟んである加計呂麻島
そして請島与路島があります。


【 瀬戸内町の全体地図 】 こちらをご参照ください(瀬戸内町観光協会サイト)     →http://www.kyurajima.com/sites/default/files/img/page/20110427_2.pdf


与路島は、奄美大島の古仁屋から海上35km、
町の「定期船せとなみ」だと、請島を経由し約1時間30分(直行便だと50分)。

この日、受講生は古仁屋から海上タクシー(貸切船)で直接与路島へ行く組と、
加計呂麻島の受講生と合流するために、いったん加計呂麻島を経由する組に分かれました。

冬は外洋が荒れ、夏は台風などで、
定期船せとなみは欠航になったり、抜港や条件付き運航になる日も多く、
そういった時は、加計呂麻島を経由して行く”中渡し”という方法で与路島へ行くこともできます。

中渡しでは、古仁屋港から加計呂麻島の瀬相港へ一旦渡り、
車で移動し伊子茂港へ。そして伊子茂港から与路港へ。

▲中渡し組は、伊子茂港で乗り換え


中渡しのルートは外洋を通るのに比べ穏やかなはずですが、
この日は波がけっこうあり、ちょっとスリリングな船旅に。

古仁屋から与路島までは、
加計呂麻島経由の中渡し組で約1時間、
外洋回り直接組(請島のジャナレ島回り)で約1時間20分でした。


与路島・請島のかたがたは、悪天候で船が欠航して家に戻れなかったり、
長く物資が入ってこなかったりと
海の状況に直接左右されるなか暮らしていることに、
同じ瀬戸内町ながら、本当に大変なことだろうと感じます。






与路島に着くと、この日案内してくださる区長の保島さんをはじめ、
信川さん、中村さんたちが出迎えてくださいました。

待合所には「いーおーちゃーどー」。

「よく、いらっしゃいました」の意味だそうです。
古仁屋ともまた違う言葉で、旅情をかきたてられますね。


まずは港のすぐそばの「クモディ(雲瀬)」へ。
大きな岩のそばに記念碑が建っていました。


かつてノロ神の祭祀であるオムケ(御迎え)・オーホリ(御送り)が
この岩の上で行われたという神聖なところ。
昔は、海の中にあり、ノロ舟のともづなを止めていたそう。

この場所で撮影された1962年の「オーホリ(御送り)」の写真が、
瀬戸内町立図書館・郷土館2階に展示されていますので、ぜひ一度ごらんください。

昔から子どもたちが乗って遊ぶことも禁じられていた聖なる岩、
なんですが・・ヤギがつながれていました。



そして、与路集落の中へ。

与路島は周囲18.4km、一島一集落。

現在、59世帯、人口102名。

大正から昭和30年頃までは1000人を越えていたこともあり、
なんと昭和25年には、222世帯1348名もの人口が!
現在の静かな様子からは想像もできませんが、古仁屋に次ぐ大きな集落だったこともあるそうです。





そして人々を惹きつけてやまない、
与路島ならではの美しい風景「サンゴの石垣」。

奄美群島の中でもこのサンゴの石垣が数多く残っている島で、
情緒があり、とても魅力ある景観。

国土交通省の次世代に引き継ぎたい島の景観として、
島の宝100景「涼を呼ぶサンゴの石垣」として選ばれています。



▲この4尺(1m20cm)が基本の高さだそう


境界線としての役割、
そして台風などの強風を防ぐ一方、
夏は隙間から涼しい風も運んでくれるサンゴの石垣は、島の暮らしに合ったもの。

小さな島である与路島にとって、
サンゴは塀を作るための貴重な建築資材でした。

しかし、昭和30年代頃からブロック塀が島にも入ってきます。
”その当時”は、
・ブロック塀のほうが風に対する強度が強く、積み直したりする手間もない
・補修も必要がなく半永久的
・ブロックは幅が狭いので、宅地面積が増えてその分活用できる
・サンゴの石垣の隙間にはハブが住み着くがそれを未然に防げる
などと考えられ、ブロック塀に変えた家が多かったようです。


ですが、ブロック塀が入ってきて約50年が経ち、
ブロック塀をつなぎとめていた内部の鉄筋が
長年の風圧と潮風によってむき出しとなって曲がってきたりしました。

それによって、サンゴの石垣のほうが耐久性にも優れているとの認識が広まったり、
やはり昔ながらの与路島の景観を戻そう!と、
その価値が見直され始めます。


▲与路集落の信川さんがサンゴの石垣について説明


そんな与路島ならではの伝統的景観を守ろうという機運が高まった矢先に、
2009年「島の宝100景」にも認定。
その後、「与路島サンゴ石垣等史跡環境保護組合」が設立され、
保存活動が軌道に乗りだしました。

朝日新聞文化財団や町・県などの補助を受け、
劣化した石垣の復元と技術を伝承しながら、
住民みなさんが保存活動に取り組んでいます。



与路島には約350ヶ所のサンゴの石垣があるとのこと。
サンゴの石垣景観整備事業の全体計画では、総延長874.2mにも及びます。


  *  *


【 与路島の石垣の基本的積み方など 】
  「 瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第4号 『与路島ノート2 / 町健次郎』」より


・使用するサンゴは、すでに死んで白化して石になっているものを海から採集
・サンゴの石は平たいものが「ナバ石」。平たい形がナバ(島言葉で椎茸)のようであることから。
 丸いものを「ガブ石」(魂を指す言葉)と呼ぶ。平たくて積みやすいナバ石を優先して拾っていた。
・サンゴ石の採集は6~10月ごろまで夏場の作業、集落総出の「ユイワク」(共同作業)。
・10年に一回ぐらいのペースで行なっていたが、昭和34年頃を最後にしなくなった(ブロック塀が入ったり、若者減少)




            

・土台には、大きな石・硬い石を置く。川や山にある「マイシ(真石)」を使うのが良いらしい。
・土台部の幅が3尺(90cm)であれば、積み上げた時の上部幅が2尺(60cm)になるようなイメージで、上に行くにしたがって徐々に狭く
・土台が決まれば、手頃な石を重なるように積み上げる。間には、少し大きめの石を重ねる。
 この石と石を渡すような大きめの石を「トオシ(通し)」、「ワタシ(渡し)」、「ルク(貫   く)」という。
・隙間には細かい石片を入れていく。
 これを「ワタ石(石垣を人に見立てると内蔵のようなものだか ら、との意味か)」という。
・石垣は隙間があると崩れやすいので、積んでからも外から石を打ち込んでいく。

  



この石垣は、イラストの積み方と近いでしょうか。土台は大きな石ですね。




こちらのお宅は、海からの風を防ぐため海側を高くして、横側はなだらかに低くなっています。


高く積むには、それだけ土台の幅を広くしなければならず、敷地も必要で作業も大変。
屋根が見える程度の高さにするお宅が多いようです。


石垣の耐久年数は、積む人の技術によって差が出るもの。

不慣れが人が積んだ時のエピソードにこんなものがあります。
「自分の畑周りを手伝いを呼んで石積みし、夕方には完成したので、
その場でお祝いをしようと宴会を始めていた。
ところが突然ガラガラガラッと、大きな音が響いて全部崩れてしまった」(!)。

  *  *

島の石垣積みは、長年引き継がれてきた先人たちの知恵。

技術の伝承を丁寧にしていくことが、
本当に必要ですね。
今が最後のチャンスかもしれません。




ところどころに立てかけられている”ハブの用心棒”。
ハブが出てきた時に叩いたり押さえつけたり。
そんな勇気・・・ありませんね。



一見無造作に積んでいるようですが、強固。素晴らしい。


歩いていると迷路に迷い込んだよう。


民宿も、サンゴの石垣に囲まれていてステキです。


もちろん昔ながらの島の家にはぴったり。


集落のかたが「与路島の道路やお墓などは、京都のように碁盤の目のように綺麗に整備されている。
これも先達のおかげです」とおっしゃっていました。
この清々しく美しい集落の景観は、なによりの誇りですよね。



途中、海岸からは無人島「ハミャ島」が見えます。
白砂からなる吹上浜が美しく、夏はキャンプや釣りで人気。ハブはいません。



たっぷりとサンゴの石垣を堪能した後は、
海岸と反対側のサガリバナの道にも案内していただきました。
夏の夜には、こんなふうに美しく咲きます
7月中~下旬が見頃だそう。



与路島にある「へき地診療所」。
この敷地には、ノロ神が稲作儀礼の祭祀する場「アシャゲ」があったそう。
建物の横にある細い道は、神様が通る「カミミチ」です。

▲ちなみに看護師さんは常勤していますが、お医者さんは2週間に一度、月曜日に来島


かわいい消防車。



昭和29年8月、与路青年団により建立された日本復帰記念碑。
「へき地診療所」の隣にあり、左下は「カミミチ」。



ATMもあります! 与路郵便局。



与路小・中学校。小学生6名、中学生2名の計8名が通っています。
教員も、校長・教頭・養護の先生を入れて8名!

▲学校には面白いものがあったので、あらためて紹介します。


午前中は、与路集落をくまなく回って、公民館に戻りました。
夢中になって歩きまわってお腹ペコペコ。
集落のみなさんと、受講生のみんなで昼食です。


与路集落の中村さんの奥さまがお漬物やお菓子、お茶などを準備してくださって
楽しいひと時となりました。


これで、午前の部は終了です。
与路島のお話は、続きます。




< 参考文献 >
・「与路島誌」 屋崎 一 
・「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第3号」 『与路島ノート1』 町健次郎
・「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第4号」 『与路島ノート2』 町健次郎
・「瀬戸内町誌 民俗編」 瀬戸内町教育委員会


2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
  


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2012年08月11日

与路島でウミガメミーティング

奄美海洋生物研究会主催
【 第4回 奄美大島 ウミガメ ミーティング 】が
8月12日(日) 瀬戸内町の与路島公民館で開催されます。



奄美海洋生物研究会のウミガメ調査の様子は
こちらでどうぞ→「奄美大島☆撮影日記」(会長・興 克樹さんのブログ)


基本的には与路島のかた向けだそうですが、
興味のあるかたなら参加OKとのこと。

わがS.B.Iの現場監督、水野康次郎も
「瀬戸内町ウミガメ調査報告」を発表!

瀬戸内町の与路島・請島は、日本有数のアオウミガメの産卵地とのこと。
すごいですね〜。

ウミガメミーティングは夜に開催なので、
与路島には宿泊が必要になります。
交通アクセスや宿泊などは下記をご覧ください。

与路島に渡る「定期船せとなみ」のスケジュール→こちら
与路島の宿泊→こちら



また与路島には以前ご紹介したサガリバナ
そして見事なサンゴの石垣もありますので、
宿泊して、ゆっくりといろいろ楽しむのもいいですね。



瀬戸内町 与路島


S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会)
鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内







  


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2012年07月25日

与路島のサガリバナ

瀬戸内町の与路島(よろじま)へウミガメ調査に行った
S.B.I の現場監督Mから、
サガリバナの写真が届きました。


7月22日(日)のサガリバナ


奄美大島以南の南西諸島に自生するサガリバナ。
マングローブの後背地や湿地帯に多く生育する植物です。

夜の間に、
なんとも芳しい香りを放ちながら咲いて、
朝には散ってしまう儚い花。


与路島には何カ所か群生しているところがありますが、
地元の方にお話を伺うと、
昔はもっとたくさんサガリバナがあったとか。

以前は稲作が盛んで、
田んぼの境界にたくさん植えられていたそうです。

何年か前に、
夜の与路島へサガリバナを見に行ったことがありましたが、
暗闇の中、ふわふわと咲く姿は
とても幻想的でした。

また、早朝に
うす桃色の花びらがあたり一面に散り
敷き詰められた姿も、なんとも言えない美しさです。

8月ぐらいまでが見頃でしょうか。

与路島は、国土交通省の島の宝百景「涼を呼ぶサンゴの石垣」が選ばれたところ。

この夏、
サガリバナの夜の開花から、
朝散るまでを見に
泊りがけで与路島へ遊びに行くのもおすすめです。




2012.07.22

瀬戸内町 与路島 与路



S.B.I (瀬戸内町文化遺産活用実行委員会)



  


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