2013年02月01日
与路島の民具 / 与路小・中学校
与路島にひとつだけある学校、「与路小・中学校」。
明治12年に、与路島下等小学校として設立され、
創立130年以上を経ている歴史ある学校です。
現在は小学校6名、
中学校2名の合計8名。
教員も、校長・教頭・養護を含めて8名と同じ人数(!)。
校庭も手入れされていて
とても気持ちのいい学校です。
島案内人育成講座で、
集落を散策した際に、学校にもお邪魔しました。
与路小・中学校には、
島の民具が数多く保管・展示されているのです。
廊下には、厨子甕(ずしがめ)がズラリ。
「厨子甕」は、
奄美群島や沖縄で使われていた、いわゆる骨壷。
かつて土葬や風葬をして数年が経ったのち、
遺骨を洗って厨子甕に納骨していました。
現代の火葬用の骨壷より、サイズはかなり大型。
昔は、夫婦合葬や親子合葬なども一般的だったため、
2人分の骨が入る大きさになっています。
材質は主に、石灰岩製や陶器製の2つ。
こちらには、陶器製のものが並んでいました。
沖縄の壺屋で焼かれたものが奄美群島まで運ばれてきてたんですね。
形は、「甕型(かめがた)」と、「御殿型(うどぅんがた)」があります。
こちらは「甕型」。高さ約80センチ。
左側のものは、「ボージャー厨子」と呼ばれているもので、
形から”坊主”に似ていることからボージャーと名付けられています。
確かに、丸みが似ていますね。
また小さく開いている穴は、魂の出入り口とのこと。
ここから出入りして、旧盆に戻ってくるのでしょうか…。
こちらは「御殿型」。
釉薬をかけないで焼いているものを沖縄では荒焼(あらやち)と呼んでいます。
荒焼のものは、御殿型の初期に出現するタイプです。
高さは約60~70センチほど。
正面には、蓮華と法師像が。
瓦模様を刻んでいないこのタイプが、御殿型でも古いタイプです。
骨壷と言えば、ただの”入れ物”というイメージでしたが、
厨子甕は、装飾されていたり屋根瓦が刻まれていたり。
まさに”あの世の家”。
こうやって死後の世界にも立派な家を準備する
島の人々の先祖への気持ちは、素晴らしいですね。
これらの厨子甕を見て、わがS.B.Iの隊長は
「どれも良い品。町立郷土館にほしいぐらいです」と、呟いてましたよ。
またこちらの部屋には、多岐にわたる民具が展示されており、
学校にこのようなスペースがあることに驚きました。
器や壺、収納道具、農耕の道具など、
島の人たちが暮らしていくなかで使っていたさまざまなものが収められています。
中には、イ草などで作る筵(むしろ)を編む道具もありました。
与路島では、戦前から戦後にかけて、各家庭でイ草を栽培し、
筵(むしろ)を自給自足していた時代が。
昭和20年代には、製筵所を家業とした人もいたそう。
今でも3種類のイ草が集落に自生しています。
大島紬の糸繰りの道具なども
酒器、器など日常のもの。
右手前にあるのは「煙草盆(たばこぼん)」、と言うのですね。
煙管(きせる)でのタバコの吸い方も
ほとんどの受講生は知らなかったため、与路集落の信川さんに教えていただきました。
黒糖づくりに使う道具も。アクをとったり、かきまぜたり。
島でかつて盛んに行われた黒糖づくり。
その道具がいくつもありました。
与路小・中学校では、おとなり請島の池地小・中学校と集合学習をしており、
キビ刈りなどから黒糖づくりの体験をすることもあります。
別室には、サタグルマ(鉄輪圧搾機)も!
昔は、馬や牛をつないでこの棒を回しサトウキビの汁を搾っていた道具。
学校の黒糖づくりでは、子どもたちが押して体験。
サタグルマが学校にあるなんて、与路島ならではですね。
余談ですが、与路島から寄贈された鉄輪圧搾機が
瀬戸内町立図書館・郷土館にも展示されています。
S.B.Iの隊長曰く、
『いろいろな資料の中には、遺跡から出たと思われる遺物が!
中国の焼物の青磁、白磁。徳之島で焼かれたカムィヤキも。
南蛮や薩摩焼などさまざまな焼物が無造作に置いてありました。
現在は、アクセスが大変な与路島ですが、
このような資料を見ると、
重要な海上ルートの一つだったことが分かります。
実は、与路島は遺跡の宝庫。
今後、大発見があるかもしれません』。
学校の一角にあった「水がめ」。
昭和8年、集落の人たちが寄付して作ったもの。
毎日、子どもたちが担当を決め水を汲み、ここに貯めて使用。
「いっぱいになるまで貯めるのが大変だった」と、案内人の信川さん。
水がめの横にあるのは、
与路島出身の親ノロ「大アムシャレ」の碑。
「大アムシャレ」とは、
奄美が琉球王国に服属していた時代、
最高神官の次の位に任命された親ノロのこと。
琉球王国の南北3カ所のみ配置され、
親ノロとして、その地域のノロを支配し、祭政一致の政策を司っていました。
与路島は、当時、徳之島の山(サン)と同じ行政区分で、
ある時、与路島出身の人物が、大アムシャレに任命されました。
それが、与路の津止家の生まれ、本名クゥイチャン。
その与路の大アムシャレが首里城の王府に参内した際、
連れていった姪のタンムイバンに悲劇が起こり、
琉球からの帰路、与路島の近くになって大アムシャレは姪の死体を抱え入水自殺。
村人が深い悲しみの中、
サンゴ石を海から一度も地面に落とさないようにずっと手渡しで運び、
ノロ墓を造って大アムシャレを丁寧に葬ったとあります。
本来の大アムシャレのノロ墓は、もっと山の中にあるそうですが
行き来するのが大変だろうとのことで、
この場所に碑を建立し、話を伝えています。
高位高官の親ノロが与路島にいたというのも、
当時の与路が琉球王朝の中で
重要な位置づけであったと考えられますね。
学校に、これだけの民具や資料が保管・展示されてあり、
子どもたちが身近に昔の島の暮らしに触れることができるのは、素晴らしいですね。
与路島にまつわる貴重なものを見せていただきました。
学校に興味があって中を見学したいかたは、
ぜひ職員のかたにひと声かけてください。
〈 参考文献 〉
・「 与路島誌 」 屋崎 一
・「 与路校創立百二十周年記念誌 」 与路校創立百二十周年記念誌刊行委員会
2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路
S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K
鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
明治12年に、与路島下等小学校として設立され、
創立130年以上を経ている歴史ある学校です。
現在は小学校6名、
中学校2名の合計8名。
教員も、校長・教頭・養護を含めて8名と同じ人数(!)。
校庭も手入れされていて
とても気持ちのいい学校です。
島案内人育成講座で、
集落を散策した際に、学校にもお邪魔しました。
与路小・中学校には、
島の民具が数多く保管・展示されているのです。
廊下には、厨子甕(ずしがめ)がズラリ。
「厨子甕」は、
奄美群島や沖縄で使われていた、いわゆる骨壷。
かつて土葬や風葬をして数年が経ったのち、
遺骨を洗って厨子甕に納骨していました。
現代の火葬用の骨壷より、サイズはかなり大型。
昔は、夫婦合葬や親子合葬なども一般的だったため、
2人分の骨が入る大きさになっています。
材質は主に、石灰岩製や陶器製の2つ。
こちらには、陶器製のものが並んでいました。
沖縄の壺屋で焼かれたものが奄美群島まで運ばれてきてたんですね。
形は、「甕型(かめがた)」と、「御殿型(うどぅんがた)」があります。
こちらは「甕型」。高さ約80センチ。
左側のものは、「ボージャー厨子」と呼ばれているもので、
形から”坊主”に似ていることからボージャーと名付けられています。
確かに、丸みが似ていますね。
また小さく開いている穴は、魂の出入り口とのこと。
ここから出入りして、旧盆に戻ってくるのでしょうか…。
こちらは「御殿型」。
釉薬をかけないで焼いているものを沖縄では荒焼(あらやち)と呼んでいます。
荒焼のものは、御殿型の初期に出現するタイプです。
高さは約60~70センチほど。
正面には、蓮華と法師像が。
瓦模様を刻んでいないこのタイプが、御殿型でも古いタイプです。
骨壷と言えば、ただの”入れ物”というイメージでしたが、
厨子甕は、装飾されていたり屋根瓦が刻まれていたり。
まさに”あの世の家”。
こうやって死後の世界にも立派な家を準備する
島の人々の先祖への気持ちは、素晴らしいですね。
これらの厨子甕を見て、わがS.B.Iの隊長は
「どれも良い品。町立郷土館にほしいぐらいです」と、呟いてましたよ。
またこちらの部屋には、多岐にわたる民具が展示されており、
学校にこのようなスペースがあることに驚きました。
器や壺、収納道具、農耕の道具など、
島の人たちが暮らしていくなかで使っていたさまざまなものが収められています。
中には、イ草などで作る筵(むしろ)を編む道具もありました。
与路島では、戦前から戦後にかけて、各家庭でイ草を栽培し、
筵(むしろ)を自給自足していた時代が。
昭和20年代には、製筵所を家業とした人もいたそう。
今でも3種類のイ草が集落に自生しています。
大島紬の糸繰りの道具なども
酒器、器など日常のもの。
右手前にあるのは「煙草盆(たばこぼん)」、と言うのですね。
煙管(きせる)でのタバコの吸い方も
ほとんどの受講生は知らなかったため、与路集落の信川さんに教えていただきました。
黒糖づくりに使う道具も。アクをとったり、かきまぜたり。
島でかつて盛んに行われた黒糖づくり。
その道具がいくつもありました。
与路小・中学校では、おとなり請島の池地小・中学校と集合学習をしており、
キビ刈りなどから黒糖づくりの体験をすることもあります。
別室には、サタグルマ(鉄輪圧搾機)も!
昔は、馬や牛をつないでこの棒を回しサトウキビの汁を搾っていた道具。
学校の黒糖づくりでは、子どもたちが押して体験。
サタグルマが学校にあるなんて、与路島ならではですね。
余談ですが、与路島から寄贈された鉄輪圧搾機が
瀬戸内町立図書館・郷土館にも展示されています。
S.B.Iの隊長曰く、
『いろいろな資料の中には、遺跡から出たと思われる遺物が!
中国の焼物の青磁、白磁。徳之島で焼かれたカムィヤキも。
南蛮や薩摩焼などさまざまな焼物が無造作に置いてありました。
現在は、アクセスが大変な与路島ですが、
このような資料を見ると、
重要な海上ルートの一つだったことが分かります。
実は、与路島は遺跡の宝庫。
今後、大発見があるかもしれません』。
学校の一角にあった「水がめ」。
昭和8年、集落の人たちが寄付して作ったもの。
毎日、子どもたちが担当を決め水を汲み、ここに貯めて使用。
「いっぱいになるまで貯めるのが大変だった」と、案内人の信川さん。
水がめの横にあるのは、
与路島出身の親ノロ「大アムシャレ」の碑。
「大アムシャレ」とは、
奄美が琉球王国に服属していた時代、
最高神官の次の位に任命された親ノロのこと。
琉球王国の南北3カ所のみ配置され、
親ノロとして、その地域のノロを支配し、祭政一致の政策を司っていました。
与路島は、当時、徳之島の山(サン)と同じ行政区分で、
ある時、与路島出身の人物が、大アムシャレに任命されました。
それが、与路の津止家の生まれ、本名クゥイチャン。
その与路の大アムシャレが首里城の王府に参内した際、
連れていった姪のタンムイバンに悲劇が起こり、
琉球からの帰路、与路島の近くになって大アムシャレは姪の死体を抱え入水自殺。
村人が深い悲しみの中、
サンゴ石を海から一度も地面に落とさないようにずっと手渡しで運び、
ノロ墓を造って大アムシャレを丁寧に葬ったとあります。
本来の大アムシャレのノロ墓は、もっと山の中にあるそうですが
行き来するのが大変だろうとのことで、
この場所に碑を建立し、話を伝えています。
高位高官の親ノロが与路島にいたというのも、
当時の与路が琉球王朝の中で
重要な位置づけであったと考えられますね。
学校に、これだけの民具や資料が保管・展示されてあり、
子どもたちが身近に昔の島の暮らしに触れることができるのは、素晴らしいですね。
与路島にまつわる貴重なものを見せていただきました。
学校に興味があって中を見学したいかたは、
ぜひ職員のかたにひと声かけてください。
〈 参考文献 〉
・「 与路島誌 」 屋崎 一
・「 与路校創立百二十周年記念誌 」 与路校創立百二十周年記念誌刊行委員会
2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路
S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K
鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 13:15│Comments(0)
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