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2012年12月28日

お宅の三献おしえてください!

年の瀬も押しせまり、
いろいろとお正月を迎える準備をすすめているかたも多いと思います。


「あまみヒギャジマンプロジェクト」からお願いです!

みなさんのウヮンフネ(豚骨)三献 などの 写真を撮って投稿してください!


送り先は、メールまたは、Facebookで。

☆Eメール : s.bunkaisan@gmail.com
あまみヒギャジマンプロジェクトのFacebook
メッセージで送っていただくか、ご自分のFacebookに写真をアップして、
あまみヒギャジマンプロジェクトのFBにコメントで教えていただいてもけっこうです。



何か一つだけ、写真だけ(携帯写真OK)、いわれなどなくてもOK。
お気軽にどうぞ!



送っていただいた情報は
後日、「シマの正月料理」として、ブログなどでご紹介したいと思います。


今回は、瀬戸内町にお住まいのかただけでなく、
奄美全域からの情報をお待ちしております。


いろいろな写真が集まって、
笠利や瀬戸内町との違い、
沖永良部のは、「こんなに違う!」など比較ができればいいな~と思っています。


【 例 : 笠利出身 Kさん家 】


われらS.B.Iの隊長(笠利出身)の
今年のお正月料理はこんな感じだったそうです。


◎大晦日の「ウヮンフネ(豚骨)とティバンシャ(ツワブキ)料理」



・笠利のウチの家では、「ブタホネ」と呼んでいました
・ツワブキとブタホネだけでなく、大根や昆布、人参が入ってる時もあったような・・



◎三献(サンゴン)


・赤椀のダシは鰹、昆布、椎茸。赤碗がなかったので、味噌汁椀で代用
・赤碗の具は、海老、卵、椎茸、かまぼこ、ミツバ、餅。生麩もあったので入れてみました
・黒碗の具は、鶏ササミ、春雨、ネギ
・笠利町赤木名出身で鶏飯発祥の地なので、黒椀は鶏ガラスープ
・吸い物の具材は奇数。7,9が多い?
・刺身は二切れ。この時はタコ(何にでも吸い付くから)ですが、カンパチを使うことも




他にも、お正月に我が家はこんなものも三献の前にいただいてます。

◎シュームリ


・「シュームリ(塩盛り)」と呼んでます。床の間に飾っておいて、家長が取り分けます。
・ホシイカ、昆布、塩の順に朝一番に家長が新年の挨拶とシュームリをしてました。


◎その他、わが家のルール
・赤碗→お酒→刺身→黒碗→お酒
・三献だけだと朝お腹が空くので、〆に黒碗の鶏ガラスープで鶏飯にして食べました。




【 送り先 】

メール       s.bunkaisan@gmail.com
Facebook   あまみヒギャジマンプロジェクトFacebook  
(メッセージで添付か、ご自分のFBにアップして当方までコメントをお寄せください)        


【 内容 】 見たい写真・こんなことが書いてあるとウレシイです◎

・大晦日・正月料理の写真
 (豚骨料理、三献、シンカン、ヒムン、塩盛など。どれか一つでもOK!)

・具材

・品数や順番、決まりごと (お吸い物の具材は奇数、モチは丸など)

・我が家のルール、エピソード (三献を食べてる間はしゃべってはいけない、など)

・お住まい (笠利、名瀬でけっこうです)

・お名前 (ブログで紹介する場合のペンネーム、匿名希望など明記ください)




その他、床の間の飾り、お正月の門松、習慣など
お正月関係で「うちはこんなことをやっている」というのがあれば
なんでも送っていただけると嬉しいです


みなさまのご投稿お待ちしております。
携帯写真でもかまいませんので、お気軽に送ってください。

よろしくお願いいたします!



    *   *

今年5月末からスタートした当ブログ。

瀬戸内町内のシマジマへ行って、
たくさんのかたにお会いし、お話をうかがうことができました。

また先日、
奄美新聞記者が選ぶしーまブログ年間アワード2012
「第3位」という、一年の締めくくりとして素晴らしい賞をいただきました。

これもひとえに日頃からこのブログを読んでくださるみなさま、
取材にご協力してくださるみなさまのおかげです。

今年一年、本当にありがとうございました。

2013年もよろしくお願いいたします。






2012.12.28

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内














  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 23:59Comments(2)行事・イベント

2012年12月27日

銭湯 嶽乃湯

瀬戸内町 古仁屋の、
細い川沿いにある「嶽乃湯(たけのゆ)」。

昭和18年創業、古仁屋に唯一残っている
昔ながらの銭湯です。



ジェット風呂や子供用の浅い浴槽などもあり、
とくにサウナや水風呂は男性に親しまれています。




常連さんが多く、
90歳を過ぎたおばあちゃんも
毎日歩いて通ってくるとか。

お話を聞いてた時も、
午後3時の早い時間からひっきりなしにお客さんが来ていました。




番台を守っているのは、大正15年生まれの古谷さん。
昭和24年にお嫁に来てから、
ずっと嶽乃湯の歴史を見続けてきました。

昨年4月、長年連れ添ったご主人・昇さんを亡くされ(享年89歳)、
息子さんと営業を続けています。

自分の名前でなく、亡くなったご主人の名前を出してほしいとおっしゃるので、
便宜上&親しみを込めて”おばちゃん”と呼びますね。



番台に座り続けて、63年。
嶽之湯の顔であるおばちゃんは、昔話をいろいろと教えてくれます。

「終戦後は、軍の司令部が近くにあったから、兵隊さんがいっぱい入りに来てた」
「このへんは焼け野原で、疎開小屋がいっぱいあってねー」
「昭和33年の古仁屋の大火後には、昭和湯、千歳湯、朝日湯とウチの4軒銭湯があってね」
「昔は、建物を柿(こけら)板で作っていた時もあったよ」





嶽乃湯は、昭和18年創業。

それまで満尾湯として営業されていましたが
当時の経営者が戦争とともに鹿児島本土へ引き揚げ、
亡くなった昇さんの父・武之介さんが買い取りました。

おばちゃんに嶽乃湯の名前の由来を聞くと、
「分からないけど、おじいちゃんが武之介だったからかもね~」と。


営業を始め2年経った昭和20年、
建物は空襲で一度目の焼失。

また昭和33年12月27日にあった古仁屋の大火では
市街地の90%が焼け野原になる大惨事に。
近くの市場から出火したため、嶽乃湯もふたたび全焼してしまいましたが
翌年すぐに立て直し。

そして平成5年、創業から3度目の建て直しを経て、
現在の姿となりました。


  * *


初めて嶽乃湯に来た時に、
ときめいてしまったのがレトロな木製の靴箱や脱衣ロッカー。

この木製の鍵なんか、たまらないですね。


こちらは古仁屋の大火の後、
昭和34年に、昇さんが大阪まで行って注文し作らせたもの。

買い換えようと何度も思ったけど、
「お客さんたちが『絶対に古いままがいい』って言うから新しいのに替えられないのよ」と、おばちゃん。
私もそう思います。

磨いて大事にしているのがよく分かるツヤです。



脱衣所も、昔懐かしい器具がそのまま(使えるかは?)。
常連さんも多く、マイ洗面器とおふろセットが並んでいます。




佇まいが昭和の面影を残し懐かしいのはもちろん、
嶽乃湯の魅力は、山から引いた水を使い、薪でお湯を沸かしていること。

やっぱりお湯ざわりが柔らかくなるんでしょうか、
お客さんから「薪で沸かしてますか?」と聞かれることもあるそうです。



創業当時は水道がなかったので、
近所の3軒くらい共同で山から水を引いて、
現在もその山水を使用。

そして、燃料の薪。



終戦後から、平成5年ぐらいまでは古仁屋に製材所が3ヶ所あり、
亡くなった昇さんは、オートバイにリヤカーをつけて
おがくずや薪を集めていて、その姿は古仁屋の名物だったとか。
時には宇検村まで行くことも。

「年とったから止めてって言っても、聞かなかったねー」と、おばちゃん。
昇さんは、70歳ぐらいまでリヤカー引いて回ってたそうです。



昔はどこの銭湯も薪で沸かしていましたが、
時代とともに、薪の入手が難しくなってきたり、管理の大変さから
重油で沸かすところが増えてきました。
 

嶽乃湯の釜は、重油と薪を併用できるもの。

一時期は、重油だけを使っていましたが、
重油の価格が高騰したこともあり、
現在は、できるだけ薪で沸かしているそうです。




もちろん燃焼具合をこまめに見たり、
木材を集めるのはとても大変な作業。

息子の守昇さんが温度を保つために、
30分に一度温度を見ながらこまめに薪を足しています。

昔ながらの「まちのつながり」で、今でもなんとか古材などを入手することができ、
薪で沸かすスタイルを続けています。




「嶽乃湯に嫁いでからすぐに番台に上がったけど、
若いころ、大阪で阪急電車の出札口で券の販売をしていたから、
こういう仕事は慣れていたのよ。

この番台の中で、3人の子育ても、ぜ~んぶしてきた。

昔は年中無休だったし、寝る時間が2~3時間しかなくて、
キツくて逃げようと思ったこともあった。

本当に、ようがんばってきたと思います。

なにより話したり、お客さんと接するのが楽しいからね」。


戦後の混乱、米軍統治、
そして54年前の今日起こった古仁屋の大火など
さまざまな時代を乗り越え、
とにかく元気に毎日番台に座っているおばちゃん。

大晦日・元旦も、お客さんを待っています。




年末年始の営業は、

大晦日 : 平常通り(13:00~21:00)、
元旦 : 朝7時~11時まで
2日、3日 :  お休み 
4日から  : 平常営業 


元旦は、一年の一番風呂を求めてお客さんがいらっしゃるため、
朝7時から11時まで営業。
「うちは、それからやっとお正月を迎えられるのよ」。



▲”おばちゃん”。話をしていると、「これが1番よー」と、瓶入りの珈琲牛乳をごちそうしてくれました。
お風呂上りじゃなかったけど、とっても美味しかった!



暖かい奄美では、ついついシャワーで済ませがち。
でもさすがに年の瀬も押し迫ってくると寒さを感じますね。

たまには、ひろーい湯船に浸かって、
手足を伸ばしてリラックス。
薪で焚いた軟らかいお湯で、心も体も温まりませんか。

一年のさまざまなものを年末にきれいさっぱり洗い流すもよし、
元旦に、新年の一番風呂を迎えるのもいいですね。





【 嶽乃湯 】

瀬戸内町古仁屋松江12

営業 / 午後13:00~21:00
休み / 月2回 (第1・3日曜日)








2012.12.20

瀬戸内町 古仁屋 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内





  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 16:28Comments(0)奄美大島

2012年12月27日

12月のラジオ放送

われらS.B.I (瀬戸内町文化遺産活用実行委員会)
エフエムせとうち の番組 「 せとうち なんでも探検隊 」  

12月分 本日放送です。

あまみエフエムでも放送ありますーー!





【 放送内容 】

今月のヒギャジマンのコーナー、テーマは「島のお正月」。

本日は、古仁屋在住のお二人のシマッチュをゲストにお迎えしました!

森島さんには、小学生のころ見た
正月料理のために近所で豚を解体していた風景など思い出話を。

また藤田真知子さんには、
お宅での大晦日のティバンシャ(つわぶき)とワンフネ(豚骨)の煮物、
元旦の三献(サンゴン)、瀬戸内町ならではのシンカンなどの料理、
その他一家の過ごし方などについていろいろおうかがいしました。




放送時間は、


◎ エフエムせとうち

12月27日 (木)
10:10~、14:40~、20:40~


◎ あまみエフエム ディ!ウェイブ

12月27日(木)
14:40~


あまみエフエムは、インターネットサイマルラジオでも
お聴きいただけます。


どうぞ、よろしくお願いいたします!











  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 09:23Comments(0)エフエムせとうち

2012年12月26日

こども探検隊 古代体験 火起こし&石蒸し料理

大昔の人々の暮らしに思いをはせる
火起こしと、バナナの葉を使って石蒸し料理の古代体験。

そして、島の食卓にかかせない味噌料理づくり。

瀬戸内町立図書館・郷土館による
「こども探検隊」講座の今年最後の活動に参加してきました。




6月に第1回目の活動として、
図書館前のハヌス畑でサツマイモの苗植え、そして古代米を植えたメンバーたち。

その収穫を祝い、
今年一年のさまざまな活動に参加してくれて
おつかれさまという意味も込めて、楽しく年忘れパーティ。
内容盛りだくさんのイベントになりました。

(残念ながらメンバーが植えたサツマイモは不作だったそうで数が足りず、
鹿児島から送ってもらったものを加えての焼き芋となりました・・)。



* *


図書館の前のハヌス畑では、サツマイモの石蒸しが行われました。

まず探検隊の隊長や大人たちで、イモを蒸し焼きにする土台となる穴を作り、
そこで火をどんどん焚いて穴を熱していきます。



ある程度土台が焼けてきたら、薪を足して石を焼いていきました。
探検隊のみんなで一生懸命に石と薪をいれていきます。(遊んでる子もいましたが・・・) 



その間、女子はサツマイモを洗って準備。



ある程度石が焼けた時点で、
綺麗に洗ったイモを焼くときに焦げないよう、
濡らした新聞紙とアルミホイルで巻いてきます。


「これワンのイモど!」と目印をつけたりして主張していました。
全部一緒にして焼けてしまうと分からないと思うんですけどね・・。

「おヒゲ~!」



そして、イモの投入です。

まず穴にバナナの葉を敷き詰めます。



綺麗にバナナの葉が入り、
大きな器の様になったら、イモ投入です!


今回焼いたサツマイモは44個。
まんべんなく焼けるように均等に敷き詰めていきます。


イモを敷き詰めた後に、中までしっかりと焼けるように、
隣の小さい穴で焼いた石をイモの隙間に入れていきました。



全部入れ終わったら、さらに上からバナナの葉でフタをします。



土がイモにつかないように綺麗にフタができたら、
土をかぶせていきます。


ここでは探検隊の男の子達も一緒になってかけていきます。
土をかけていると、綺麗に埋まっていない所のあちこちから煙が出てきました。
みんなでそっちとかあっちとか言いながら、出てくる煙をどんどんふさいでいきます。



本来ならこれで終わりですが、今回は念のため埋めた真上でも火を焚きました。
こうすれば走り回る子供たちが間違ってイモの穴を踏むこともありません。




イモを埋めた後は1時間ぐらいかかります。
そこで次の男料理?、
ハンゴウでのご飯焚きに挑戦しました。


今回は4つのハンゴウに、
収穫した古代米を白米に混ぜた古代米飯と、
サツマイモを混ぜたイモご飯を準備。


男料理と言っても、お米洗いとサツマイモを切るのは女子でしたね。


驚いたことに、ここにいた女子全員がお米を研いだ経験があるそう。
どうりで上手。
ちゃんとお手伝いしてるんですね。エライ!


お芋を切る手も慣れています。


お姉ちゃんたちが切るのを見て楽しそうだったのか、男子も挑戦!



朝から石を焼くのにつかった小さい方の穴に、
また薪をいれ、コンクリートブロックと鉄筋で橋をつくり、そこにハンゴウをかけました。



実は大人たちも、
ハンゴウでの焚き方を長いことしていないので忘れてよくわかりませんでした・・。



「火はもう少し強い方がいい」とか、「いやもう少し弱いほうがいい」とか話をしていましたが、
それを横目に子供たちは気にせずどんどん木切れを入れていきます(笑)



とりあえずハンゴウが沸騰したので、そのまま弱火で長めにかけて、
最後は火から下ろして、全体を蒸らすために逆さまにして放置しました。



さて、イモの焼き時間が1時間を超えたので掘り起こすことに。

中で火がくすぶってるので、まず大人が表面の土をどかしていきます。



すると中から焼けたバナナの葉が出てきました!
なんか遺跡の発掘みたいですねー。



フタの葉をどけると、とうとうイモが出てきました!



みんな焼けているか興味深々。
まだ熱いイモにどんどん手が伸びます。



掘り起こしたイモはまだ熱いので、とりあえず横に置いていきました。
あとはある程度冷めて食べるまでの楽しみです。

最後、ご飯を炊くのに使った残り火で、燻製づくりをしてみました。
丸い缶に桜の木片をいれ、缶の途中にある網にチーズと魚肉ソーセージを置いてスタートです。


ここではあまり火加減は気にせず、
じゃんじゃんと火を燃やしていきました。

途中からいい感じで煙が出て、何度か中をのぞきましたが、
チーズがいい色に!

作っている男の子達も「おー、できてきてる!」と感動です。

燻製が終わる頃には1時を回っていて、
みんな食べ物を目の前にお腹ペコペコでしたね。


 * *


男子が火に群がっている間に、
女子は卵味噌、サツマイモのスイーツづくり!

卵味噌の先生は、主婦歴37年、嘉鉄のたっちゃんです。


現在でも、茶請け味噌として、
島でよく食べられている味噌料理。

島の粒味噌に、砂糖や鰹節を混ぜて炒め、
豚肉を一緒に炒めた「豚味噌」や、焼き魚などの身をほぐしてまぜた「魚味噌」は
ご飯のお供にピッタリ。

サツマイモが主食だった頃は、
お芋に、味噌をつけて食べていたそうです。

今回は、卵を入れた卵味噌。
卵を入れた味噌は初めて見ましたが、
栄養もコクもあっていいですね。

▼味噌に卵、砂糖を入れてどろどろに


今回は大量に作りましたが、念のためレシピを。


【 卵味噌 】

< 材料 >

卵4個、粒味噌500グラム(ヤマアの粒味噌)、砂糖400グラム、
鰹節70~80グラム、黒(または白)ゴマ適量


①卵をよく溶きほぐしておく。
まずは強火で味噌を油になじませて、中火~弱火に落として卵を入れる。

②砂糖を入れて、焦げないように木べらなどで常にかき混ぜ、
ドロドロになるまで溶かす。

③煮詰まったら火を止めて鰹節を入れ、さらに混ぜる。

④お好みで白ゴマか黒ゴマをたっぷりふってできあがり!

☆ポイント
・火をかけるのは、全体で10分ぐらい
・味噌によって甘さが違ってくるので、砂糖を加減する
 (卵味噌には、ふつうの粒味噌が合う。
 特上の粒味噌はあまり砂糖を加えなくてもよく、豚味噌や魚味噌に合う)
・鰹節は細かいもののほうがいい。




完成! おにぎりに入れたり、これにさらに焼き魚のほぐしたものや、豚肉をまぜても。
これだけで、ご飯が何倍も食べられそうなほど美味しかったです!



他にも、女子が大好きなサツマイモスイーツ♪

大学芋は、素揚げしたサツマイモに醤油・水・島ざらめを溶かしたものをからめ、
こちらもゴマをたっぷりふって。



このツヤたまりませんね。


かりんとうも作りました。
スティック状に揚げて、島ざらめと水を溶かしたものをからめます。

揚げたてはたまらなく美味しくて、
男子には秘密(!?)で、どんどんつまみぐい。



そうこうしてると、ハンゴウのご飯が炊きあがりました。

古代米は両手のひら分ぐらいしか収穫できなかったみたいですが、
みんなが食べるにはじゅうぶん。



車座になって「いただきまーす!」


みんなが協力して作った今日のメニューです。


さんざん待ったかいがあったね。





お腹がいっぱいになったら、
お楽しみの火起こし体験。

挑戦するのは、「古代摩擦発火法」。

この「舞錐り(まいぎり)式火起こし機」を使います。


横板を上下させることで木の棒がクルクルと回り、
木の板と摩擦が起き火種ができます。



それを板の下に置いてある、
麻縄をほぐしたものと木くずに移し、酸素を送り込んで発火させます。


煙は多少出るんですが、
なかなか子どもの体力では回し続けるのがかなり大変。
自然と協力して回すという方法を試してみる二人。



大人がちょっと手助けしてみました。
モクモクモク~と、かなり煙がたたないと火種はできないようです。



んんっ! これはいけそう! 
どんどん息を吹きかけます!!



ガンバレ、ガンバレ~~~!
赤い火が見えてきました!



「やったー! 火がついた!」。



一同大興奮です。


この火おこし体験、
子どもたちには大好評!

粘り強く何度も何度も挑戦する子も。

大昔の人はもっと原始的な道具で火を起こしていたのですからスゴイですね。

火を起こすのがこんなに大変だったと
ちょっとは気づいてくれたかな?



 * *


土に埋めてのバナナの葉っぱを使っての石蒸し料理や、
ハンゴウ炊飯。

12時のお昼のチャイムがなってもなかなか食事の準備ができず、
食べ始めたのは1時過ぎていたでしょうか。

「お腹空いた~」の連発だったり、
「ねえ、もう食べていい~?」とフライングしようとする声もありましたが、
なんとかみんなの準備が整うまでガマンして
一緒に食べました。


こども探検隊のメンバーは
昔の人の暮らしや料理、食事を作る大変さ、協力すること、我慢など
さまざまなことを学ぶことができたようです。







2012.12.22

瀬戸内町 古仁屋 町立図書館・郷土館

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 現場監督M&広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内

  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 17:52Comments(0)行事・イベント

2012年12月23日

須子茂 集落散策 / 島案内人育成講座

加計呂麻島の
須子茂(すこも)集落へ行ってきました。

須子茂は、
加計呂麻の昔のシマのたたずまいが残っている集落。

2つの「アシャゲ」、神様が通る道「カミミチ」などが残され、
島の民俗的なものが数多く見られる、貴重な空間です。



この日は、「第3回 島案内人 育成講座」の
『須子茂集落散策と、島の遺跡めぐり』に参加するためでした。

瀬戸内町のシマジマに残る
貴重な自然や文化、歴史などの魅力を伝え、案内していく「島案内人」。

観光PRのサポート役として
町のさまざまな場面で活躍してもらう人材を育成しようと、
瀬戸内町役場まちづくり観光課が主催し、
育成講座が開催されています。

全6回で、加計呂麻島、請島、与路島のことを学び、
最後の検定試験で合格すると、晴れて「島案内人」として認定・登録されます。

3年目を迎える事業で、
卒業生の中には「あまみシマ博覧会」でガイドなさったかたもいらっしゃるんですよ。


 * *


奄美大島側に住む受講生は、
海上タクシーに乗って加計呂麻島の瀬相港へ。


ここで加計呂麻島の受講生と合流し、
加計呂麻バスに乗って須子茂を目指します。

台風などさまざまな災害で道路事情が悪く、
かなり遠回りの、北側の実久まわりで須子茂へ。


 * *

まずは、須子茂のミャー(広場)に集合。

午前は、須子茂集落を散策し、
午後から島の遺跡についての座学と、土器などの遺物探しです。


午前の須子茂集落散策は、いくつかのグループに分かれました。

今回ガイドするのは、昨年度までの受講で検定に合格、
「島案内人」として認定されているかたがた。

みなさん前の週に、事前に須子茂で研修し
この日のガイドに備えたそうです。


 * *

島案内人の禱 一男(いのり・かずお)さんグループに同行させてもらいました。


禱さんは、加計呂麻島の俵にお住まい、
なんと81歳!

昨年、この島案内人講座を受講し、合格。
とにかく勉強熱心で、博識。
そして元気元気!!

瀬相港から須子茂までのバスの中でも、
通過する集落集落のガイドをしてくださり、
よどみなく出てくる説明に一同感心しました。


 * *

公民館前のミャー(広場)からスタートです。

こちらは「アシャゲ」。
昔、ノロ神(琉球王国から任命された祭祀を司る女性)が稲作儀礼などの祭祀する場所でした。


アシャゲのそばにある「イビガナシ」。


イビガナシは「島立神」として集落を守っている神さま。
ここのは、石灰岩の自然石でできています。



こちらは、「トネヤ」。ノロ祭祀に関連する建物。
集落の守り神の神棚が中にあります。



ゆっくり歩きながら須子茂小学校へ。

校庭にある大きなデイゴの木がシンボル。
休校中ですが、集落のかたが手入れされており、キレイに保たれています。
とてもカワイらしい小学校。



小学校の体育館そばにある「イジミ」。
昔から集落のかたが飲料水として使っている泉です。
もちろん今も飲めるので、味見!



校庭にある「奉安殿」。
戦前の日本で、天皇・皇后の御真影と教育勅語を納めていた建物。
瀬戸内町には、現在6つの奉安殿が残っています。



同じく校庭にある「母と子の像」。


この「母と子の像」には、こんなエピソードがあります。

昭和37年にNHKのラジオ番組で、
当時の須子茂小学校の校長の投書「追い詰められたへき地教育の悩み」が読まれた。

当時、夜間しか電気が使えなかった加計呂麻島、
昼間は、自家発電だけが頼り。
だが国庫補助金が打ち切られるため、自家発電設備が作れないという悲痛な訴えだった。

たまたまこれを聴いた
大手ゼネコンの鹿島建設社長の鹿島卯女さんが資金援助を申し出、
念願の自家発電機が整備され、
映画鑑賞など動向の視聴覚教育が飛躍的に充実していった。

学校からはお礼に蘇鉄を送るなど交流が続いた。

出稼ぎで男親たちが島を長く留守しているのに耐えている
須子茂の母と子の心の支えとなるように、
鹿島卯女さんから、ふたたびこの「母と子の像」を贈られた。


校舎裏の小屋にある、その自家発電機。






須子茂集落は、生け垣がいつもきちんと刈揃えられています。
歩いていて、とても気持ちのいい集落。



「カミミチ」。ここもキレイに手入れされています。

以前、電信柱を建てる時に業者が場所を探していた時のお話。
業者は空き地だと思いカミミチに建てようとしましたが、
集落の方は、とんでもないと、
個人の庭を提供し、電信柱を建てるようにしたとか。
それだけ、カミミチは集落の方にとって守るべき大事な場所なんですね。


「厳島神社」。
正月1日か15日の寅の日には、村の人が祈願。


厳島神社の目の前にハナシュクシャがいっぱい。
白い花を咲かせとてもいい香りがします。

英名ジンジャーリリー。
ガイドの中には「神社の前に咲いてるから”ジンジャリリー”!」なんて説明するかたもいたとか。
もちろんジョークですが、
そういう覚えかたをさせるのもガイドの力の一つかもしれませんね。



禱さんが担当する受講生は、
加計呂麻島の薩川でペンション「紫微鑾駕(しびらんか)」を営んでいる栁沢(やなぎさわ)ご夫妻。


ご主人の良裕さんは、東京出身。
「島在住5年目。みなさんにいろいろ島のことを教えていただいていますが、
集落によっても違ってそこに入らないと分からない。
島のことを全体的に、ちゃんと知りたくて受講しました」。

奥さんの志賀子さんは、加計呂麻島・薩川のご出身。
「高校を卒業して、ずっと東京にいました。
島より東京にいる時間のほうが長く、島に戻ってきて気づくと、
島のことを何も知らない。ペンションでもいろいろ聞かれるので
自分流でなく、ちゃんと勉強したかった。島のことを再発見しています」。


集落にもう一つある木製の「アシャゲ」。



そばには、「力石」(ちからいし)があります。
昔の若者の力比べに使われた石。多い人で17回担いで村の中を回ったとの云われが。



このアシャゲのそば、
民家の横にも「カミミチ」が通っています。



ひととおり回って、集落の案内終了!
質問タイムです。
いろいろ聞いても、どんどん答えや考察が出てくる案内人の禱さん。すごい!



それぞれのグループが散策から戻り、海岸の涼み台などでお昼ごはん。


須子茂出身の受講生が、
散策途中で会った親戚からもらったミカンをみんなに配って食べたり。

幅広い世代が参加していますが、
みなさん「島を学びたい!」という気持ちが共通しているからか、
話題が尽きず、和気あいあいと時間が過ぎていきます。


 * *

午後からは、「島の遺跡について」。

まずは瀬戸内町立図書館・郷土館の学芸員 鼎 丈太郎(かなえ・じょうたろう)氏の講座。


島の遺跡、土器や貝などの出土品、
琉球や本土との関わりから見る、奄美の役割などについて学びました。

この須子茂集落でも、
道路工事に伴ない発掘調査が行われ数多くの遺物が発見されました。

須子茂集落遺跡では、
弥生時代中期から近現代にいたるさまざまな遺物が出土しており、
ちょっと歩くだけでも
たくさんの遺物が見つけられる貴重な集落なんだそう。



注目すべき出土品は、ゴホウラの貝殻。

このゴホウラは、弥生時代から古墳時代にかけて
北部九州などでは貝輪(ブレスレット)の材料として珍重されていたもの。

南西諸島に多く生息しているため、
こちらから北部九州へ運ばれたと考えられています。

須子茂集落遺跡からは、
島外産の土器や陶磁器など外来の焼き物も出土しており、
古くから南北の諸島間での交流があったことがうかがい知ることができます。

他に、須子茂での発掘調査の時に、
集落の道の辻にハブの骨を埋めて、
その上からシャコ貝で押さえる魔除けも見つかった、
という話などは参加者の興味を引いていたようです。


 * *


遺跡について勉強した後は、
集落をめぐって実際に土器などの遺物を見つけます。





土器を探す合言葉は、「下を向いて歩こう!」。


須子茂集落は、深く掘らなくても
土器が道路の表面にあるという素人が聞くとビックリするような事実。

やりはじめると、宝探しのようにみなさんハマりだします。


「先生、これは土器ですか?」。
次々に受講生が持ってきます。



土器かな~と思っても石であることが多く、見分けがつきにくいですね。

1番右は残念ながら石でしたが、他に土器と貝を見つけたようです。
自分が弥生時代の土器を見つけられるなんて!



みなさんの、この日の成果!

土器(兼久式らしきもの)、古墳時代のスセン當式土器などをはじめ、
青磁・白磁、カムィヤキ(類須恵器)、染付、
滑石、布目圧痕土器、壺屋焼(沖縄産)、薩摩焼(鹿児島産)
ヤコウガイ、貝の小玉(?)などなど。


ざっと1時間ぐらい歩いただけで、
これだけのものが見つかるのは、
考古学の研究者が見ても「すごい!」と言うような場所なんだそうです、須子茂は。

出土したものからも、
奄美は沖縄と本土を結ぶ中継的な役割をしていたようです。


遺跡のことなど机の上で学んだだけだとピンときにくいですよね。

自分で歩いて回って、土器などさまざまな遺物に出会うと、
「本当に弥生時代にここに人が住んでいたんだー」と、
急に遺跡や土器という言葉が身近に感じられます。
想像するだけで、ロマンが広がります。


この日の島案内人講座は、これにて終了。

みなさん須子茂の中を自分で歩いて、
集落の成り立ちや空間形成、
シマの美しさ、そして遺跡にもふれることができたようです。

今後、島案内人育成講座では、与路島・請島にも行き
島のことを学んでいきます。

「島案内人」がもっともっと増え、
町民の一人ひとりが自らシマの魅力を発見、伝えられるようになると、
瀬戸内町の発信力もどんどん高まっていくでしょうね。



須子茂集落には、このような案内板もあります。


海岸には、かわいらしいバス停も。



正面に浮かぶのは、無人島の「須子茂離れ」。
左には与路島。晴れた日には徳之島も見えます。
他の島との交流の拠点としても、重要な位置だったのかもしれません。






須子茂は、個人的にも大好きな集落。

内地から知り合いが遊びに来て、
加計呂麻島に渡ると散策に連れていくところです。

島のらしい雰囲気があちこちに感じられ、
集落の中を歩くだけで、すがすがしい気持ちになれる
とっておきの場所。

ぜひ、みなさんも散策してみてください。





< 参考文献 >

「まんでぃ 加計呂麻島・請島・与路島をめぐる旅」 瀬戸内町役場まちづくり観光課
「瀬戸内町文化財ハンドブック せんとうち」 瀬戸内町教育委員会
「瀬戸内町の文化財をたずねて」瀬戸内町教育委員会



2012.12.19

瀬戸内町 加計呂麻島 須子茂

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内





  


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2012年12月20日

久根津、捕鯨時代の思い出

大正時代と、昭和30年代に捕鯨基地があり
とても賑わった久根津集落。

以前、その歴史について触れました。
 「久根津とクジラのかかわり」 http://higyajiman.amamin.jp/e299861.html 

当時のお話をうかがおうと集落をまわったところ、
象徴的な時代を覚えていたお二人に運良く出会えました。

まず一人目は、
大正11年生まれ、現在90歳の久原ミスエさん。

久根津で捕鯨会社が最初に操業したのは、大正元年~10年ごろ。
その当時はミスエさんはまだ生まれていないので、
ミスエさんの捕鯨でにぎわった頃の記憶は大人になってからのもの。
密航船の来ていた昭和20年代のお話です。


ミスエさんは、戦争中満州にいて
昭和22年に奄美大島へ引き揚げてきました。

戦後、本土復帰(昭和28年)前の米国管理下、
まだ地元の漁協から何も言われず、、
密航で捕鯨船が入って、クジラを自由に獲っていたそうです。


▲久根津の久原ミスエさん


ドラが3回鳴ると、人であふれた久根津

「その頃は自由で、クジラを食べ放題でした。すごかったです。
それは今でもよく覚えています。
捕鯨船も貨物船も来てにぎやかだったし、クジラで久根津はだいぶ潤いましたよー。

密航の船だったので、クジラを解体してあらかた肉をとった後、
身のいっぱいついた骨も何も捨ていていって逃げるようにして帰っていってました。
肉を取った後は内蔵を捨てっぱなしにしていたから、臭かったですね。
そのうち2~3年して、こっちの漁協がやかましくなって密航船も引き揚げていきました。


捕鯨船はクジラを獲って帰ってくると、
皆津崎から大島海峡に入って、
古仁屋の沖合いを通過するあたりでドラを3回鳴らしてね。

それを聞いた瀬戸内の人たちは、
みんなそのまま走って久根津に集まってきた。

クジラの解体場(現在の奄美養魚)では、身のついた骨そのままポーンって捨てていたから、
私たちは、それを剥ぐために包丁を研いで肉剥ぐのを待ってたんですよ。
あちこちのシマから自由に来て、人々が群がりよったからすごかったです。

クジラの頭も投げ捨てていたし、肉がいっぱい付いたまま骨をバンバン投げ捨てていましたから。
肋骨などは自分の作業のしやすいところに持って行って作業するんです。

もう最高でしたよ~。
持ちきれないほどクジラ肉を持って帰ってきました。

4斗樽の大きな樽にみんな塩漬けして10年ぐらい食べたのを覚えていますよ。
冷蔵庫のない時代だったけど、塩漬けしていれば大丈夫だったから。

捕鯨船の乗組員は、内地の人。
久根津の人で船に乗る人はいなかったです。

クジラが獲れたら金儲けがあった。
日当で現金収入があったので、シマの人は招集されていた。
男性はクジラの解体の応援、女性はクジラを引き上げる滑車を回す役目でね。
クジラの尻尾をロープでくくって、それを引き上げるんです。
昔の砂糖車みたいに回してボツボツ引き上げていた」。


▲クジラ解体処理に使われた包丁(瀬戸内町立図書館・郷土館所蔵)。
刃渡り約45センチ、本来は柄が約2~3メートルあり、
高い位置の処理に使ったとみられる



クジラの食べかた

「うちの主人が区長をしていたから、
クジラが獲れたら必ず何十キロかの肉の塊を船長さんが区長のためだと言って持ってきよったです。
砂糖醤油で炊いたり、塩をかけてちょっと干からびたのを焼いて食べたり。
主人は刺身(生姜・酢・醤油)で食べていました。

皮はカワンムィと方言で言ってました。皮が美味しいんです。
オバは尾羽と書いて、これは尻尾の部分。

船員はオバも捨てていたから、私などはすぐ走ってオバの部分を取りにいった。
オバは茹でて、塩して、熱い湯をかけたらクリっとなるので、
野菜と混ぜたり、酢味噌で食べたりしましたよ。
オバ(尾羽)などは大きな皿に盛って食べていた。

クジラの皮を油で揚げることもあった。それを大きく切って油でから揚げにする。
それを「アブラカス」と言って、前は売っていましたけどね。
新鮮なブエン(刺身)では油が強いから、揚げることで油抜きになった。
それを冬とかは野菜と一緒に炊いて食べたりしましたね。

舌も美味しかったんですよ。舌は焼いて食べる。

私たちはクジラ肉がいよいよなくなるという時に、塩漬けして食べた。
塩漬けを食べる時は、茹でれば塩分が取れるからいいんですよ。
焼いて肉を子どものおやつにもしていました。

クジラの肉で1番上等は霜降り。
船員が赤肉を持ってくる時があったら、
『白が混じっているのがおいしいですよね、船長さん』と言うと、
次からは霜降りを持ってきよった。

ほんとうに美味しかったですね」。


集落を潤したセンピリョウ(千尋)

「クジラは捨てるところは何もない。

腸のことをセンピリョウ(千尋)と言って、
大きな腸だが、それが美味しいのでよく食べました。

密航船の船員は内蔵は処理できずに畑に埋めていったので、
それを見た集落の人たちは、
親田原(現在の民宿「よーりよーり」)のところに小屋を建てて
内蔵を茹でて食べられるようにする施設を建設してました。
クジラ肉よりも内蔵が美味しいと評判になったんです。

集落で内蔵やセンピリョウをいっぺんにもらって処理をしてきれいにして。
食べやすいように切って、茹でて。
それを安くで古仁屋で売りよったんです。

センピリョウの味付けは砂糖醤油が普通。
野菜のダシにしたり。

古仁屋から競争して買いにきたほどで、
久根津はクジラのセンピリョウ販売でずいぶん潤って、集落費も稼ぎましたね~」。



青年団の資金作り

「青年団が資金作りしたのは演劇でした。
青年処女団だから結婚していない人たちで運営していた。
今で言えば80歳代後半の方々で、亡くなっていない人も多い。

戦争から引き揚げてきた人たちが芸達者が多くて、
ギターを弾く人、脚本書く人、監督みたいな人がいて垢抜けた芝居をさせていて大評判でした。
あちこちから演劇をまたしてくれと頼まれることがあって、
資金を稼いで真っ先に公民館立てたのも、公民館に畳を入れたのも久根津が最初です」。


「親戚」も増えた!? 久根津の人々

「昭和22年に満州から引き揚げてきて、
ほそぼそと芋なんか植えて食べれるようにしたり、サトウキビ植えたり。
少しずつ収入ができたけど、つらかったですよ。波瀾万丈でした。

自分たちで食べるぶんの野菜を作って自給自足だった。
あの頃はお肉など自分でお金出して買って食べる人はいなかったでしょう。
捕鯨会社がきて、ずいぶんいい思いをしました。

クジラの肉剥ぎをしていたあの時、
久根津の人たちは、今まで知らなかった『親戚』がたくさんできましたよ。
これで親戚ができて、今でもつきあっている人もいますからね。

戦争で、瀬戸内全部が食べ物のない時代にクジラのおかげで助かった。

いま思えば、夢みたいな時代でしたね。
もうあんな時代は二度とないでしょうねー」。





    *   *





もうお一人、捕鯨時代の思い出をお話してくださったのは、
久根津集落の区長、久原章司さん。
昭和30年生まれの57歳、現在、集落にある「奄美養魚」にお勤めです。






▲久原章司さん。奄美養魚の敷地にあるクジラの肋骨

「クジラが揚がった記憶は一回だけ、昭和36年の時。
クジラが揚がった最後で
私が小学校1年生の時に母親におんぶされて見た記憶があります。

当時は製糖工場も稼働していて(現在の教員住宅は製糖工場跡)、
『クジラが揚がった~!』とか言って、ムラがにぎわっていた。

滑車を大木にかけて男性陣が『ヨイショ、ヨイショ!』と声を合わせてクジラを引いていた。

ムラの青年なんかは、
ポケットにいつもナイフを入れて持っていってね。

クジラの油ですぐ切れなくなるから、
手に砥石を持っていって、ギシギシ研いで荒削りに骨がなったらぽんと投げて。

われわれはそれに群がって、
肉を缶詰に入れて醤油にかけて食べたら美味しかったー。


▲外浜と呼ばれる奄美養魚の敷地。大正元年の火災で最初のクジラ解体場所が焼けたので、
大正2年にここに移転。昭和20年、戦争で当時の施設は全焼した


クジラは油井の端っこ(奄美養魚の場所)で解体していた。
久根津は冷たい風が入ってくる。急に海が落ち込んで深い港があるので、
捕鯨施設を作るには立地が良かったんでしょうね。

捕鯨基地があった時代の施設のコンクリートなど、
残っているものなどは何もない。

でも海岸にはクジラの肋骨が一本残っていて、今でもそのままにしてる。
海の中に潜れば、骨はたくさん堆積してるはずですよ」。









▲現在の「奄美養魚」の敷地。このあたりに、巻揚機があり鯨を引き上げていたとのこと。
いまはその器具などはなにも残っていない


「クジラが揚がった最後の時を見ていて、
たった一回だったけど、
その時のことは強烈に覚えていますよ。

高校一年生の時には、
久根津の海で沖縄海洋博のイルカのオキちゃんが調教されているのを見て、カッコイイな~と思って。
自分も海の仕事をしたいと思ったんです。
何かの縁だったのかもしれないね」。




▲奄美養魚の事務所に飾られているクジラの脊椎




    *    *

大正に生まれ、戦争を経て、米国管理下にあった時代の奄美大島、
そして昭和を生き抜いてきたミスエさん。

うっとりした表情で語られるそのお話は、聞いているそばから
どんどん映像となって
色鮮やかに頭の中に浮かんでくる臨場感あふれるものでした。

ミスエさんが自分の90年の人生の中でも
「1番いい時代だった」と言わしめるほどの輝かしい時代だったようです。

そして、クジラが揚がったたった一回のことを鮮明に記憶している久原さん。


強烈な体験をしたお二人から直接語られる話は、
歴史資料などには載っていません。

個人の体験をその本人から聞くことは、
こちらにもダイレクトに響いてくる
貴重で、本当に面白いものだと実感しました。


こういった生のお話を聞ける機会を増やし、
もっともっと記録していきたいと思います。





2012.10.3

瀬戸内町 久根津

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内




  


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2012年12月17日

油井 子ども餅つき大会

12月16日(日)、油井小・中学校で
「子ども餅つき大会」がありました。

油井小・中学校は、
現在、小学校に12名・中学校に5名が在籍する併設校。

子どもたちは、集落の田んぼでお米作りの体験学習をしており、
今回はその田んぼで収穫したもち米をつかっての餅つき大会。

今年34歳の父兄が小学生の時もやっていたという、
油井集落にとっては、ずっと続いている大切な行事です。



瀬戸内町の中心部・古仁屋から
車で約15分の油井(ゆい)集落。

旧暦8月15日の十五夜豊年祭で披露される
「油井の豊年踊り」が鹿児島県の無形民俗文化財に指定されており、
集落をあげてこの伝統芸能を守り続けています。

油井の豊年踊りは、
稲作作業を終え、豊年を神々に感謝し祝う行事。
稲刈りや稲摺りなど稲作の一連の作業をユーモラスに、
そして華やかに芸能化したものです。


▲学校のすぐそばある看板。ここにミャー(広場)と土俵があり、「油井の豊年踊り」は披露される


奄美大島では現在ほとんどされていない稲作。
油井では、十五夜豊年祭の日に使用するもち米や、縄の材料となる藁などのために
集落で田んぼを持っています。

この田んぼで作られているのは、すべてもち米。

豊年踊りで使用する縄をなうための藁は、
うるち米よりも、もち米の藁のほうが長くて適しているのだそう。

収穫したもち米は、豊年祭で赤飯にして振る舞い、
あとは子ども餅つき大会で食べたり。
余れば集落のみなさんで分配しています。

    *        *

子どもたちは学校近くの須佐礼(すされ)にある田んぼで、
集落のかたがたに教えてもらいながら、
4月下旬の田植えに始まり、田んぼで泥んこになりながらの草取り、
7月末に稲刈り、8月には脱穀も体験。

籾や藁のくずを飛ばす唐箕(とうみ)を使ったり、縄をなうなど、
昔ながらのさまざまな作業を経験して、収穫したもち米を食べる機会を迎えました。




この日は、もち米17kgを使用。
子どもたちがそれぞれ家に持ち帰って水に浸して、
朝持ってきたものを次々とお母さんがたが蒸していきます。




子どもたち全員が餅をついていきます。




中学生ともなると、もう慣れたもん。


つきあがったお餅は、体育館の中で
どんどん丸めて。


卓球台がテーブルに早変わり。


粘土遊びみたい!?


次のもち米が蒸し上がるまでの間、遊びまわります。
お兄ちゃんが、ちゃーんと年下の子をみてあげているのがエラい!


油井の子ども育成会長の増さんも餅つき!
「ムラのかたが、田んぼの管理などがんばってくださってこのような行事ができる。
入学を待っている子どももいっぱいだし、
みんなおにいちゃんおねえちゃんを尊敬しているんですよ」


女の子も上手!


入学前の子どもたちもいっぱい。


校長先生に優しく助けてもらいながら、餅つき体験です。


内地のみなさん、間違いなく12月です!
この日は最高気温23℃で日差しが強かったんです。


餅つきをしている間に、門松づくりも行なわれました。
お父さん・先生と一緒に、中学生も竹を割ったり。


竹を均一の長さにしていきます。


オイル缶の周りにつけて、これが門松の土台に。






松、笹、ゆずり葉を添えてできあがりです。


みなさんが分担して作業している間に、
つきたてのお餅がどんどんできあがっていました!


女子は、お餅の味つけ。
砂糖醤油、きな粉、おろしポン酢の3種類。


つやつやピカピカのお餅たち!


みんなで一斉に「いただきまーす!」


われわれもいただきましたが、
つきたてのお餅は、柔らかくもありコシもあって
むっちりしてて本当に美味しかったです!












「油井の豊年踊り」は何度か観に行ったことがあり、
「まだ観たことがない」と言う人には、とにかくおすすめしている好きな伝統芸能。
ですが、恥ずかしながら使われているもち米や藁のために
集落が稲作をしているとはまったく知りませんでした。




油井の豊年踊りは、若い人たちが多く参加し、
集落の一体感を感じる行事。

それは、こうして子どもの頃から、
日常的に素晴らしい技術を学ぶ機会があり、
伝統行事を支えるシマの人々の気持ちに触れているからこそ
自然と身についていくのでしょうね。

先日開催された「子ども島口・伝統芸能大会」でも、
油井小学校の子どもたちは、
油井の豊年踊りを見事に演じていました。




学校・保護者、そして集落が一体となって、
子どもたちに教えていくことで集落の伝統が継承され守られている。

集落の伝統、シマの結(ゆい=助け合い)の力、食べものができる過程、
さまざまなことが学べる油井ならではの体験学習でした。



今年は残念ながら、
台風の影響で中止になってしまった油井の豊年踊り。

「今年は豊作だっただけに、中止はとっても残念だった」と油井集落の区長さん。

来年は、田植えなど稲作作業に参加し、
油井の豊年踊りや餅つきまで、
集落の一年の姿を記録できれば、と思います。


油井小・中学校のみなさん、
保護者のみなさん、
ご協力いただきありがとうございました!





2012.12.16

瀬戸内町 油井

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内




  


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2012年12月13日

ルリカケスを呼んでみる

本日突然、
「ルリカケスを呼ぶ方法を知りたい人ーー!」と言われ、外に出てみました。



奄美大島周辺だけに見られる希少な鳥、ルリカケス
鹿児島県の県鳥にも指定されています。

加計呂麻島のあるかたが、
ススキを使ってルリカケスを近くに呼ぶ方法を教えてくださいました。

ススキの茎を折って、そこにススキの葉っぱを挟んで笛を作ります。



ポイント
①笛は、吸って音を出す。
②ススキは秋よりも春の若くて柔らかいものを使うほうがいい。
③ルリカケスは神経質なので、呼んでいる時は自分は動かないでジッとしておいたほうがいい。



「でも、こればっかりは何度もやって経験を積まんば」と、お師匠さん。




ということで、現場監督が実践してみました。



 



まだまだ練習が必要なようです・・・・。





2012.12.13

瀬戸内町 古仁屋

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内




  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 17:53Comments(0)自然

2012年12月12日

久根津とクジラのかかわり

瀬戸内町、久根津(くねつ)の入口で出迎えてくれるのが
クジラのレリーフ。



「くねつおおはし」と名前のついた橋の、両側の欄干についています。



ここ久根津は、瀬戸内町の中心部・古仁屋から15分弱のところ。

かつて奄美唯一の捕鯨基地があった集落で、
現在は、養殖業などが盛んに行われています。

こんなふうにクジラが使われているということは、
集落と関わりが深いことが分かりますね。

先月開催された「シンポジウム奄美のイルカ・クジラ2012」の発表
『奄美の捕鯨史』(町健次郎氏)では、久根津集落の話を中心に進められました。


▼集落を見渡せる高台にある久根津大橋




その久根津と、捕鯨の歴史をまとめてみました。

久根津集落で捕鯨が行われていたのは、大きく分けて3回。


① 【大正元年~大正10年(1912~1921年)頃 】

② 【 昭和20年代 戦後~本土復帰前後 】

③ 【 昭和36年~昭和40年(1961~1965年)頃 】


捕鯨会社が正式にあったのは①大正と③昭和30年代。

集落の方の話によると、
②の昭和20年代、戦後から本土復帰前後は歴史的資料には記述がありませんが、
密航の捕鯨船が来て3年ほど自由にクジラを獲っていたそうです。
この時代は贅沢にクジラを口にできた”いい時代”で、集落はとても潤ったそうですが、
地元の漁業者との関係で撤退したとのこと。
このときのお話はとっても面白かったので、またあらためて紹介します。

 * *


捕鯨会社があったそれぞれの時代の様子を詳しく追ってみましょう。


① 【大正元年~大正10年(1912~1921年)頃 】

◆明治44,45年(1911、1912年)ごろ
大島近海でクジラの群れが回遊するのを有望と考えた
日本東洋捕鯨株式会社(本社:大阪)が瀬戸内町の各地を調査開始。

候補地として、加計呂麻島の伊子茂など2,3ヶ所を計画したが、
交通や通信の便を考慮して、久根津に決定。

久根津が選ばれた理由は、
集落のかたの推測によると
・北風の強い集落で、古仁屋などより気温がいくらか低い。
冷蔵庫がない時代の腐敗防止で選ばれた
・海が落ち込んだ地形のため、大きな船が入港できた
のではないかとおっしゃっていました。


◆大正元年(1912年)
11月 事業を開始。
場所は、久根津の親田原(現在の「民宿よーりよーり」周辺)。

◆大正2年(1913年)
3月 捕鯨会社施設は火災により全焼。
外浜(現在の「奄美養魚」周辺)に移転。

◆大正10年(1921年)ごろ
本格的に操業していたのは、この頃まで。


▼大正元年、最初に解体処理工場が建てられた親田原は、
左の海に突き出ている、現在の民宿「よーりよーり」があるあたり。



◎解体処理工場の様子

久根津の海辺の広大な敷地(敷坪数三反あまり)に「鯨体処理工場」を建設。
大正元年に親田原に、大正2年に外浜(現在の奄美養魚)に移転。

工場は蒸気機関を備え、巻揚機でクジラを引き上げ解体処理。

鯨肉の冷凍、皮の塩加工、鯨油取り施設、肥料化工場も併設。
当時としては最新の設備だった。

長崎、五島、山口方面より70人あまりの解体夫を雇用。


▼大正2年に解体処理工場が移転した外浜。現在は養殖会社の「奄美養魚」がある(写真右奥)。




◎捕鯨船

レックス丸、第一太平丸、第三捕鯨丸が毎年2,3隻来港。
主に、南太平洋、奄美大島沖合に出漁し、
大漁の時は一日4,5頭の漁獲もめずらしくなかった。

キャッチャーボート(約100トン内外)三隻には、
優秀な技量のノルウェー人が砲手として乗り込み、
徳之島近海で一日に多い時はマッコウクジラ9頭を捕獲。

集落誌に余談が載っていました。
このノルウェー人の砲手、名前はセコントルさん。
集落の人たちも青い目の西洋人にお目にかかるのは始めてだったよう。
言葉は通じなくても子どもたちとよく遊び、
一銭二銭のお金を投げて、子どもたちが拾う様子を見て喜んでいたそう。

日本人の射撃は世界一と言われていたが、
「鯨を撃つと、子孫に祟りがある」とまことしやかに云われ、
ノルウェー人の砲手を雇い入れているという話があったようです。



▲現在の「奄美養魚」の敷地。このあたりに、巻揚機があり鯨を引き上げていたとのこと。
いまはその器具などはなにも残っていない



◎久根津集落のにぎわい

捕鯨船が外洋でクジラを捕獲し海峡内へ入ってくると、
基地に知らせるために古仁屋沖で汽笛を3回大きく鳴らす。
それを聞いて、古仁屋など他集落からも久根津へ見物客などが大勢押し寄せた。

さん橋でクジラを処理をする時は、
見物人がやってきて好奇の目で見ていたそう。

人が多く集まったことから、鯨骨・鯨歯などの細工を売るお土産店や食堂、料理屋が密集、
また鯨の臓物などを用いる肥料加工場なども他の商人の手により建設されるなど、
集落始まって以来の活況となった。



◎久根津の人々の生活の様子

工場の操業は毎年11月~翌年の3月頃まで。
捕鯨会社が操業を終了し捕鯨船が引き上げる際に、
集落の若者たちが全員志望して船に便乗し、本土へ出稼ぎ。
送金などもあり、久根津は大きく潤ったという。

集落に残った若者たちは、農業のかたわら季節雇いとして
鯨肉の加工や肥料の製造に従事し、相当の現金収入を得た。

集落は工場が親田原より外浜に移されるまでの間、
捕鯨会社より金200円相当(昭和63年当時の通貨にして約200万円)を収入として得ている。


●昭和20年(1945年) 
3月 第二次大戦も終末に近い3月、解体処理施設(長屋)はグラマン機による空襲を受け全焼。
久根津集落自体が大きな被害を受けた。
施設は軍事施設と間違えられたのではないかと言われている。




▲クジラ解体処理に使われた包丁(瀬戸内町立図書館・郷土館所蔵)。
刃渡り約45センチ、本来は柄が約2~3メートルあり、
高い位置の処理に使ったとみられる


 * *


戦後の本土復帰前後、密航の捕鯨船が来ていた時代を経て、
昭和30年代になって捕鯨が再開されました。

③【 昭和36年~昭和40年(1961~1965年)頃 】


◆昭和32年(1957年)
2月 第一八龍丸(29トン)、丸良丸(29トン)
大島~徳之島間で鯨2頭(10メートル級)仕留める。
           
4月 古仁屋港数百メートルで沖でミンク鯨を捕獲。

9月 大島近海で小型捕鯨を計画。瀬戸内漁協と北洋水産提携企業認可申請。

◆昭和34年(1959年)
4月 捕鯨漁業などについて、瀬戸内漁協総会を開く。

◆昭和36年(1961年)
12月 捕鯨事業許可される。瀬戸内漁協新年明けから操業、久根津に鯨体処理場。

◆昭和37年(1962年)
2月 瀬戸内漁協の捕鯨操業開始。1ヵ月目に初獲物重さ6トンのシャチ。

◆昭和37年(1962年)
4月 瀬戸内漁協総会捕鯨事業の継続を決議

◆昭和37年以降
瀬戸内漁協の取り組みの記録もなく、
また環境保護団体などによる捕鯨禁止運動もあって、取り組むものがいなくなる。

◆昭和40年(1965年)頃
高知県から捕鯨船団(5隻)を誘致、瀬戸内町を根拠地として操業したが、
約3ヵ月で事業を中止して引きあげた。「生産が伴わなかった」と元漁連職員は語っている。




▲クジラの脊椎(瀬戸内町立図書館・郷土館 展示品)


資料によっては「昭和36年まで捕鯨事業が行われていた」というのもあり、
昭和30年代に捕鯨が再開したときは、
それほど機能していなかったようです。

どうやら久根津が捕鯨でにぎわっていたのは、
大正時代と、密航船がきていた昭和20年代奄美群島の本土復帰前後。

何メートルもの大きなクジラが引き上げられ解体される様子など、
テレビも他の娯楽もなかった大正時代、
どれだけの見物客が押し寄せ、賑わったことでしょうね。
とくに密航の捕鯨船が来ていた時代の話は
ジブリ映画の世界で再現されたら面白いんじゃないかなーと思いました。

捕鯨基地があった時代を知るかたが少なくなっていますが、
運良く集落のかたにうかがった思い出話などを
またあらためてご紹介いたします。




▲クジラの肩甲骨(瀬戸内町立図書館・郷土館所蔵)。大人の男性が横に座ってもこの大きさ!



▲久根津大橋のところから、大島海峡内にクジラを見つけられたら最高でしょうね



< 参考文献 >
・「わきゃあ島 久根津」(久根津集落誌)
・「瀬戸内町誌 歴史編」
・「奄美のクジラをめぐる歴史民俗」(町健次郎)






瀬戸内町 久根津

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内


  


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2012年12月08日

奄美の妖怪たち 二人展

瀬戸内町立図書館・郷土館のミニミニアートギャラリー第2弾、
「奄美の妖怪たち 二人展」が8日からスタートしました。

日時 : 8日(土) ~ 26日(水)
 (火~土曜日:午前9時~19時、日曜日:午前9時~17時、月曜休館、最終26日は午後17時まで)
場所 : 瀬戸内町立図書館・郷土館 入口ホール

 
今回は、瀬戸内町出身・在住2人のイラストレーター
蘇祢 切也(そね せつや)さん、あいき じゅんさんによる作品展。




あいきじゅんさんは、奄美の雑誌「ホライゾン」で掲載した、ケンムンを中心にその仲間たちなどを描いたもの、
蘇祢さんは「南海日日新聞」で連載された『奄美・妖怪考』(文:町健次郎氏)に描いたもの、
ふたり合わせて奄美群島に伝わる40もの妖怪がならんでいます。



蘇祢切也(そね せつや)さん、53歳。瀬戸内町立図書館・郷土館勤務。


蘇祢さんは、東京の映画学校で監督の勉強や、
釣り雑誌で連載していたマンガを単行本化の経験などもあり。

平成22年、東京から奄美に帰郷し、
瀬戸内町立図書館・郷土館での仕事を得ます。
同じ職場の学芸員・町健次郎氏の妖怪の論文に触発され、
奄美の妖怪を描きはじめ、南海日日新聞にて『奄美・妖怪考』連載。


蘇祢さんのイラストには、南海日日新聞で連載された際の文章も付いているので
奄美に伝わるその妖怪にまつわる話、どんな生態なのかもよく分かります。

現在の瀬戸内町域に伝わる八角発足の牛、「ナマトンガナシ」



「ひたすら水木しげるさんの雰囲気を出しながら、自分の絵を創っています。
資料が詳しくあるものは描きやすいけれども、
あとは自分のイメージをふくらませて描いた。
背景を決めて、その妖怪に歌舞伎の見得を切らせるように、
いかにパシッとポーズをさせるかを大切にしています。
一晩で描けるのもあれば、3日間かかるのもありますね」(蘇祢さん)



瀬戸内町の加計呂麻島、芝・実久に伝わる奄美版ヤマンバ「ウバ」



徳之島の「イッシャ」




そして、もうおひとかたはあいきじゅんさん、52歳。イラストレーター。


あいきさんは、20歳のころマンガ家を目指し、絵(マンガ)を描いて東京で生活。

その後、奄美に帰郷し、会社勤めをしていましたが、49歳の時に会社が閉鎖。
30年ほどめぐって、再びイラストレーターとして活動を始めました。

「あま美デザイン工房」を開き、
挿絵(雑誌「ホライゾン」)、マンガ(「南海日日新聞」で風刺マンガ連載)、
ほか似顔絵、ポスター、キャラクター制作(瀬戸内町観光協会キャラクター「マグロ養一」)、
ロゴマーク作成などを手がけています。

あいきさんのブログ 「あま美の小さな日常」 http://aikijun.synapse-blog.jp/manga/


「イザリするケンムン」



「道に迷わせるケンムン」



「一般に妖怪は怖い存在であるけれど、
実は彼らが島の自然の守り神であったとの解釈を含め、、
忌み嫌うものでなく、親しみをもって少しユーモラスに表現しました。
中には『これは違う!』という思いを抱かれるかたもいらっしゃるかと思いますが、
妖怪のいろいろある個性のひとつとして楽しんでご覧いただければと思います」(あいきさん)



「デイゴの花の夢を見るケンムン」

「ケンムンのいるところだけ、真っ赤なデイゴが咲いている。
自然の守り神としての、メッセージ性をケンムンの姿を借りて表現しているので
それも感じてほしいですね」



ご自身では「シンプルでマンガチックなケンムンが好き」と、あいきさん。

「ケンムンは、山に住むのにふさわしい小さい体じゃないかと思ってます。
犬っぽい顔で。手足が棒のように長く見えるのも、その細さゆえだからじゃないかなと」。



  *  *

妖怪のイラストを二人展として披露した、あいきさんと蘇祢さん。

おふたり、実は約20年前に、
奄美で漫画同人誌「童夢(どうむ)」を発行していた仲間だったそう。

その後、それぞれ別の道で仕事をしていましたが、
同じようなタイミングで雑誌と新聞上に奄美の妖怪のイラストを描くことに。

「お互いの仕事を見て刺激を受け勉強になった。
一緒に作品展をできたらいいねという話になり、
今回、人の集まる図書館・郷土館を場所に選び、二人展を実現できました」(あいきさん)


二人の作品は、同じ妖怪でも解釈が違い、
またパソコンとペン画という描く道具も違う。
表現の仕方もまったく異なることで
それぞれの個性が出ているところが面白いんですよね。

あいきさんから見た蘇祢さんの絵は「緻密に描かれたところが妖怪の雰囲気にあっている」、
蘇祢さんから見たあいきさんの絵は「パソコンで書いているので色がキレイですごい!
マンガチックなデフォルメが子どもにも親しみやすくていいですね」とのこと。


この「奄美の妖怪たち 二人展」は、26日(水)午後5時まで。
期間中は、図書館開催にちなんで
妖怪のイラスト付きしおりのプレゼントもあるそうです。

また今回の展示では、妖怪が増殖する可能性があるとのこと!
何回か足を運んで、それを探すのもいいですね。


二人は「奄美の妖怪をすべてマンガ化しよう!」と計画中。
瀬戸内町発信で、新たな奄美の妖怪ブームが巻き起こるでしょうか!?
今後の二人の活動が楽しみです!




2012.12.8

瀬戸内町 古仁屋

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内

  


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2012年12月06日

ソテツをみなおす

沖縄で、ソテツに関するシンポジウムが9日(日)開催されます。

 「 ソテツをみなおす 」
~沖縄と奄美を結んで~


   奄美・沖縄の人々の生活を支えたソテツの記憶が薄れ、
   しだいに景観からも姿を消している今日、食生活だけで
   はなかったソテツ利用の歴史を共有し、「ソテツ地獄」
   という表現ではとらえきれない、地域文化としてのソテツ
   を語り合う。  


瀬戸内町からも2名が発表者として参加!

樹木医 前田芳之さん 「世界のソテツと日本のソテツ」
※ソテツやヤシの生産・販売・輸出などもてがける

瀬戸内町立図書館・郷土館学芸員 町 健次郎さん 「奄美のソテツ文化」 

について報告するのでお知らせいたします。

ポスター拡大版 → こちら



瀬戸内町では、各所でソテツの群落が見られ、
奄美らしい風景のひとつ。

そのデンプンは戦中戦後、食糧難時代に島民の命をつないだ貴重な植物でもあり、
現在は庭木や盆栽としても親しまれ、
ソテツは瀬戸内町の町木となっています。

奄美とソテツの関わりはどのように語られるか、
沖縄とは違うのでしょうか? 面白そうです。

個人的には、ソテツ料理の試食が気になりますね~。


  *  *

【 ソテツをみなおす 】
~沖縄と奄美を結んで~


日時 : 12月9日 12:00~17:00

場所 : 沖縄県 名桜大学 総合研究所(会議室・研修室)

      

※参加無料、申し込み不要


■ プログラム ■ 

12:00~ 試食

・奄美と沖縄のソテツ料理の試食


13:00~15:30  報告

1.世界のソテツと日本のソテツ  

  瀬戸内町 前田 芳之


2.毒抜き法からみた奄美・沖縄のソテツの文化史

  安渓 貴子


3.空中写真から復元するソテツ利用

  当山 昌直 ・ 早石 周平


4.奄美のソテツ文化

  瀬戸内町 町 健次郎


5.沖縄のソテツ利用の民俗

  上江州 均


15:30 ~ 15:50 休憩


15:50 ~ 17:00 討論

司会 安渓 遊地


参加者プロフィールは→こちら


主催 : 奄美沖縄環境史研究会

共催 : 名桜大学 総合研究所、沖縄大学 地域研究所

問合 : 沖縄大学 盛口研究室 098-832-3240



名桜大学サイト→http://www.meio-u.ac.jp/content/view/2321/39/ 



  


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2012年12月05日

わんのヒギャジマン

瀬戸内町文化祭で、出していたあまみヒギャジマンプロジェクトのブース

立ち寄ってくださったみなさんに、
「わんのヒギャジマン」を教えてていただきました。

「わん」とは、
奄美の方言の一人称で、「僕」とか、自分を指す言葉。

”ワタシの瀬戸内町自慢”ということになります。




「あなたにとっての瀬戸内町の好きなところ、
自慢、お宝だと思うことを教えてください。
風景、行事、おすすめスポット、モノ、コト、個人的なもの何でもいいですよ!」と、うかがっていきました。

パッと思いついて、さらさらと書くかたもいれば、
「いや~、それは難しい質問ねー。
ずっと住んでるから逆に分からないわけよー」とおっしゃるお姉さんも。

ずっと身近に普通にあると、
その良さや特別さに気づかないことってありますよね。

「内地の人が来たらこれだけは見せたいもの」とか
「例えば内地に出て働いていた時に、島を懐かしく思い出させるもの」でもいいんですよ~言うと、

みなさんお友だちと、
「あれだよー」「これは?」と、楽しそうに思い出しながら書いてくださいました。

書いたものをボードに貼っていき展示していると、
みなさん興味深く見てくださってました。





・やっぱり『人(ひと)』です。☺

・クロマグロ (瀬戸内町は、クロマグロ養殖日本一なんです)

・釣り大好き

・すばらしき夕日
 西古見の三連立神、西阿室などなど

・青い海 カケロマ大好きです。

・蘇刈の棒踊りはムルかっこいいどー!   

・何より人情深い 「来る人拒まず」誰でもすぐ受け入れてくれる。そういう島人が大好き

・なにわ食堂のラーメン

・加計呂麻島 なんか好き!! 全部好き!! 





・西古見の夕日 嘉鉄の集落 のんびりしていていいですよ

・油井岳公園から見る大島海峡や加計呂麻島等の風景、水墨画みたいです♡

・ホノホシ海岸 
 内地の人が来たらかならず連れていく、シマはどこ行っても海がきれい

・自然がいっぱい!

・清水とヤドリ浜にヤギいますヨ

・阿多地の夕日です

・実久の旧の9月9日棒踊りが昔からありますので是非みにきて下さい

・請ゆり香る大山(請島)から見るハミャ島(与路)に沈む夕日!! ヤムラランど~

・奄美に来た際は、ぜひ加計呂麻へ♡ 海も人もきれいだよーん!

・台風の時のホノホシは最高です

・渡連の砂浜






・なにわ食堂のチャンポン!

・清水(せいすい) 清水橋から(海岸を)見た風景

・島は、なんでも楽しい!!

☆素敵なお店☆ 
 ・阿木名の「チルチルcafe」 ・渡連の「楽流(らくる)」パン屋さん ・徳浜の「鶴亀 畑カフェ」

・いろんな人が居るところ、八月踊り、 ふちもち

・篠川集落の豊年祭の相撲は幼児から大人まで取り組みがあって楽しい

・酒を飲みながら三味(線)が鳴ると自然に手拍子。島唄、手踊り、みんなし寄りょうろディー

・みのりさんのスイーツ♡

・瀬戸内町のしま人情

・人のつながり ”結(ゆい)”





・加計呂麻 徳浜の海岸キレイですよ!

・嘉鉄湾です!!

・遠く離れて古里を思う事 島唄です

・久慈集落 豊年祭の振出し

・シマのイロ シマのカゼ シマのホシ

・音楽 

・須子茂の生け垣 涼み台

・嘉鉄から蘇刈線のハートが見える丘からの夕日が最高です

・カテツ 干潮時の目玉 

・管鈍から見る江仁屋離島の美しさはたまりません!

・サンガツサンチ お店や学校が休みになるのは瀬戸内町のいいところ (旧暦3月3日に貝を拾いに行く行事)


 * *

「シマのイロ、シマのカゼ、シマのホシ」と書いてくださった
今年62歳になる男性Tさん。
とてもロマンチックだな~と、その言葉に込められた意味をうかがいました。

Tさんは、瀬戸内町で小学校卒業後、一家で大阪へ引越し。
そのまま60歳になる定年まで過ごしましたが、
どうしても島へ戻りたくなって2年前に奄美へUターン。

約50年ほどの大阪暮らし。
言葉はすっかり関西弁です。

それでも、遊び盛りの小学校まで過ごした記憶が体に染み付いていて、
いつも島のことを思い出していたとか。

シマのイロ
川でガン(蟹)を取ったり、海に潜ったり
かけまわって遊んでいたときに見た奄美の強烈な自然のイロ。

シマのカゼ
吹いている風ではなく、シマ(集落)・地域の雰囲気。
田んぼや畑などで、わいわいとみんなで助けあいながら作業していく結(ゆい)の精神。

シマのホシ
さえぎるものが何もない島で見る満天の星

Tさんにとっての、島の大切なものがぎゅっと詰まった言葉でした。




他にもこんなものがありました。

・伊須湾 

・各集落のおじいちゃんおばあちゃん なごみます

・花天の七日七日晩の盆踊り

・須子茂集落から見た須子茂離れ

・名瀬から網野子峠を越え、視界に伊須湾が見えた時、海と空の美しさに感動しホッとします



書いていただいたものを見ながら話していると、
どんどん話が広がっていきました。

私もまだ見たことのないものがあったりして、
気になるものがいっぱい。


それぞれに感じる、瀬戸内町の好きなもの。
手書きのコメントは、それぞれの思いが伝わってきて
ステキな展示になりました。

ご協力いただいたみなさんありがとうございました。

これからもいろいろなところで
お話を聞いていきたいと思います。


こんな感じで、
みなさんのヒギャジマンもぜひ教えてください。




2012.11.17・18

瀬戸内町 古仁屋


S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内

  


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2012年12月04日

祝 しま3番!年間アワード2012

12月1日に開催された
奄美新聞記者が選ぶブログベスト10 年間アワード2012
なんと当ブログが【 第3位 しま3番 】に選ばれました!

本当にありがとうございます!!



2012年1月から始まった「しーまブログ」と「奄美新聞」がコラボして生まれた企画
奄美新聞記者が選ぶ月間ブログベスト10

今年5月から参加した当ブログ、
何度か月間ベスト10に選んでいただいていました。

今回は、年間アワード運営委員会が発足し、
奄美新聞記者さんが毎月選んだブログベスト10の中から
最終的にランキングを決定したそうです。

▼第3位にこのブログの名前が!

12月1日に、奄美市名瀬の高台にあるレストラン「アガルイ」さんで
アカデミー賞ばりの華やかな授賞式がひらかれました。

ドレスコードもフォーマル。そして、入口から敷かれたレッドカーペット!
レッドカーペットを歩くことなんて、もう二度とない貴重な経験です・・。


会場には、いつもブログで拝見していて、こっちが一方的に知っている有名ブロガーがいっぱい。
瀬戸内町にはない(!?)ゴージャスな雰囲気にかなり緊張です。
本当は、いろいろなかたとお話したかったんですが、
雰囲気に飲まれ、ほとんどしゃべれませんでした。。


年間アワードの幕間には、奄美のアーティスト
バナナマフィンさんのライブもあり、たいへん盛り上がりました!




こちらは、年間アワード 第1位 しま1番を受賞した笠利在住の「碧い蒼い島暮らし」のgonさんと息子さん。

(左より、運営委員会代表・奄美新聞副社長の若松さん、しーまブログ編集長の深田小次郎さん、gonさん親子、奄美新聞社の千田社長、しーま事務局長の深田剛さん)

gonさんは、シーカヤックガイドとしてキラキラした奄美の海と、
節田集落での暮らしの様子など「なりきり冒険ロマン小説家」(本人談♪)として描かれてます。

瀬戸内町での奄美シーカヤックマラソン参加や、
加計呂麻島でのキャンプなどのことも書いていらっしゃいますので、ぜひご覧ください。




【 奄美新聞記者が選ぶブログベスト10 年間アワード2012 】

第1位 「碧い蒼い島暮らし」

第2位 喜界島通信2

第3位 あまみヒギャジマンプロジェクト

第4位 奄美から素朴な贈り物 がじゅMarine

第5位 奄美の女性バス運転士

第6位 えったんの日記

第7位 ジョセフの日記:目立ちたがり男子日頃の沖永良部情報発信:

第8位 城(きずき)音楽教室

第9位 紬んちゅの会★奄美加のほこらしゃな日々

第10位 ★★ぴんぽん日記★★

第10位 りょうちゃんのほっぺ ☆成長日記☆


瀬戸内町の「シマの宝」・「シマの自慢」を探して、
発信していく日々をつづったこのブログ。
いろいろと教えてくださる島のみなさん、
そして日々読んでくださるみなさんのおかげで続けていけてます。
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

この「しーまブログ」は、
奄美群島のさまざまなエリアから日々ブログがアップされ、情報が集まっています。
行ったことのない集落・島での生活や行事は
本当に興味がそそられることばかり。

とくに個人から発信されるブログの内容は、
新聞やテレビなどマスメディアでは、
なかなか取り上げることができない貴重な体験や情報ですよね。
個人的なブログだからこそ、リアルに島を感じられr面白い。

島が好きな人にはたまらない、
内地にいるシマッチュには懐かしい、奄美群島のリアルな香りがするサイト。

また住んでいる人にとっても、
知ってるようで意外と知らない島のことを知れる記事が満載です。



われわれも、まだまだ勉強不足で知らないことも多いですが、
瀬戸内町の自慢=ヒギャジマンをこれからも
どんどん見つけていけるようがんばります!

今後とも、よろしくお願いいたします。


この年間アワードのことは、
奄美新聞紙上で後日詳しく紹介されると思いますので、お楽しみに。



2012.12.1


S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内

  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 11:48Comments(2)お知らせ

2012年12月01日

ヒギャジマンブースにて




第37回「瀬戸内町文化祭」では、
『あまみヒギャジマンプロジェクト』のブースとして
これまでのブログの抜粋、作成した動画、テルやブフォ笠などを展示しました。










ブースに立ち寄られたかたがたに、
”ワンのヒギャジマン”として「瀬戸内町おすすめ・自慢・お宝」を書いて貼ってもらいました。
みなさんから本当にさまざまな面白いコメントをいただけました。
書いていただいた方々、ありがとうございます。
(こちらは後日あらためて紹介します)




ブースでお話する中で、昔話や人々の知恵、
小ネタを教えていただいたので、ここでいくつか紹介します。

今回は、特にブースに展示した物を見られて、それに関する話しで弾みました。




●まずテルやブフォガサなどの竹細工関係のお話です。 

今年の3月、古仁屋でテルを作られている永田明正さんの制作風景を映像で記録しました。
町文化祭の当日、この映像を流しながら実際に作られたテルをおいて、
いろんな方に見てもらい体験で担いでもらったりしました。
年配のかたからは「懐かしい」とか、「今も家にありますよー」といったお話が伺えました。

個々にお話を聞くと、いまの60代から70代の親の世代は、
竹細工を作られる人があちこちいたようですね。
今から40年ほど前でしょうか。
自家用に作ったり人に頼まれて作ったりしていたとのことでした。
節子や古仁屋、油井の出身の方からのお話を聞きましたが、
他集落でも同様な状況だったようです。

古仁屋には、30~40年ほど前に竹細工屋があったとのこと。
場所は春日のあたりだったようです。その後ろにはこんにゃく屋もあったとか。

お話を伺ったかたの話では、
子供の頃、この竹細工屋からでる竹ヒゴのあまりをもらって、
遊びの道具にされていたようですよ。

近年では竹細工ができる人が極端に減り、
聞いてまわっても瀬戸内町内で永田さんしか確認できていませんでした。
しかし、テルの記録や今回の文化祭を通じて、
竹細工をしている方が他にも3人(4人かも?)いらっしゃることが分かりました!
少ないながら、今でも脈々と竹細工の技術が継がれているようですね。

瀬戸内の町内でも、地域によって使う材料が違ったりすることがあるようです。

 *

テルやブフォガサをかぶって記念撮影したかたがたの写真も
あわせてご紹介させていただきます。





お孫さんがティルを頭につけるのに挑戦!
おばあちゃんが紐で長さを調整する仕方を教えてくださいました。さすが!






なりきって演技するかたも!





今回展示した笠ですが、一般的なクバの葉ではなく、
ブフォ(ダンチク)の葉と竹で作られています。

さらに男型と女型があり、女型には星型の飾りも施してあります。
永田さんの作る笠は、材料がブフォであったり女型に飾りを施すなど、
島の他地域ではあまりみられない珍しいものでした!
この技術は永田さのお父さんから伝わったものですが、その先が気になるところです。



竹細工は地域によって材料から作り方、呼び方が違うので、
今後も作ってらっしゃる方に話を聞いたりして、
しっかりと調べていきたいと思います!









●次は壺&芭蕉の葉です。

今回、壺を展示するにあたって、
中身は空でしたが芭蕉の葉でフタにしてみようと思い、
試しにかぶせ、麻紐で縛ってみました。

思ったり葉の中央の筋が破れるので難しいと思ったのですが、
天の声が!(島の方が教えてくれました)。

「葉を壺のフタにするなら、若い葉は柔らかいのでそのままつかえる。
しかし大きくなって硬くなった葉は、火にあぶって柔らかくしてから使ったらいいよ」とのこと。
さすが昔からの生活の知恵ですね!

芭蕉の葉は、他にもおにぎりの敷物や鍋つかみなどに使われたりしています。

芭蕉の葉は肉厚で表面に光沢があるので、今で言えばラップみたいなものでしょうか。
熱を防ぐ作用もあるので、熱いご飯を握るときもつかえると言っていました。

こんな感じにフタをして


今ではなかなか普段の生活で使うことがなくなりましたが、
また機会があったらいろいろと試して使ってみたいです。





●最後にパネルを見ながら出てきたヒギャジマン&昔話です。

先日、管鈍で行われたミキ作りのパネルを見ながら篠川出身の方とお話しましたが、
ミキの話から行事の話になりました。

その方が言うには
1月と5月、9月はツキノカミ(月の神)のツキマツリがおこなわれていたようです。

その時にはオヤモチとコモチという二つのサイズの餅を作りお供えしたとのこと。
またこの日はトーティブル(カボチャ)を炊き、
親戚が集まって年配のかたの昔話を聞く日だったとか。
こういった行事から昔の伝承や風習が代々つたえられてきたのではと思いました。

現在の状況を聞きそびれたので、これもまた機会を見て
おじゃまして話を伺いたいと思います。



また、嘉鉄の知っているおじさんが来られて、
資料をみながらいろいろな話をしてくれました。

嘉鉄の県道沿いにもサガリバナが咲いていたとか、テルを作った、
垣漁を祖父の時代までやっていた、バシャギン(芭蕉の着物)を作った、
ワラの作り方は使い方によってねじる回数が違うなどなど、
どんどん出てきました。
この話は近いうちに詳細を聞いて、また別の機会にださせてもらいます。

今回は資料が目の前にあったので、
それを見ながらいろいろな関連する話をお伺いすることができました。


写真や現物があると、次から次へといろいろな話が出てくるので面白いですね。
またぜひイベントなどで活動紹介をしながら、
お話を聞いていきたいとおもいます!

ブログを見られたかたでも、関連する話でなにかあればぜひ教えてください。




瀬戸内町文化祭において、
「あまみヒギャジマンプロジェクト」のブースに立ち寄ってくださったかたがた
本当にありがとうございました!



2012.11.17・18

瀬戸内町 古仁屋

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 現場監督ミズノ

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内

  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 12:27Comments(0)行事・イベント