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2013年02月26日

なんこ 瀬界大会

2月24日(日)、瀬戸内町で
「なんこ 瀬界(せかい)大会」が中央公民館でありました。

昔からシマに伝わる遊びを楽しみながら継承しようと、
町社会教育課、町立図書館・郷土館が主催。

なんと下は6歳の幼稚園児から
最高齢75歳の幅広い世代が参加!

瀬戸内町のALT(外国語指導助手)、
アメリカ出身のシャノン・グリッパンドさんも出場し、まさにワールドワイド。

こども37人、大人17人の計54人が、
真剣勝負の瀬界(世界?)を繰り広げました。




開会式を終えて、まずは徳永 允(まこと)先生による「なんこ講義」。

徳永先生は、俵中学校を校長で定年退職後、
現在は、瀬戸内町教育委員や古仁屋中特別支援教育支援員などでご活躍されています。

なんこの歴史、
玉(棒)の持ち方や、手の出し方などを実演をまじえ説明してくださいました。

「なんこは、先輩方が引き継いできた、いわば伝統芸能です」。



「なんこ」は、中国がルーツ。
旧薩摩藩で広まったお酒の席での遊びです。

2人で、なんこ盤と呼ばれる木製の台を挟んで向きあって対戦。



1人3本ずつの玉と呼ばれる棒を持っています。
自分の思った数を手の中に隠して握り、



それをなんこ盤の上に出し、

「(合わせて)◯本!」

と、お互いに持っている玉の合計数を当てていくという、
基本はとってもシンプルなゲーム。



瀬戸内町でもなんこ遊びが盛んで、
忘年会やお祝いの席でも場を盛り上げるためによく行われています。

シンプルなだけに、
わざと1本見えるように手を出したり、握り方を工夫したり。

相手の目をじっと見たり、困惑させるような表情をしたり。
みなさん自分なりの戦術を編み出していて奥がとても深いですね。




「◯本!」と、
数を言う時も、独特の言い回しがいくつかあるようです。

・0本 「ムナ!(無)」 「フイタ(空、吹いた)」 

・1本 「テンノウヘイカ(天皇陛下は1人しかいないから)」

・2本 「ゲタンハ(下駄の歯が2つなので)」

・6本 「キョーデー(兄弟)」3本と3本で、お互いに同じ数を出しているとの意味。
     ※1本と1本、2本と2本でも使う言葉。


などなど、これはほんの一例。

その他にも、そのシマだけとか仲間内だけの言い方があるようで、
それもまた面白いですね。

お酒の席では、、
負けたほうが注がれたお酒を飲み干すというルールも。

今回は残念ながら(?)、
子どもが多かったので焼酎は出ていませんでした。





3対3の団体戦からスタート。
18チームで予選リーグ、その後12チームで決勝トーナメントが行われました。



まずは、このように魚の形を作って、好きな玉から交互に取って行きます。

これは「鯛」を表していて、
とくにお祝いの席では海から福をもたらしてくれるように願って、
尾が海側に向くように置きます。

目玉をお酒を入れたおちょこで作り、
そのお酒でなんこ盤と玉を清めてから開始する場合も。

 *


団体戦では、検見役(審判)を大人が務め、
子どもには遊び方やテクニックなどを少しずつ伝授。



う~ん、いい表情してますねー。



女の子もいっぱい参加してくれました。
体力に関係なく遊べるからいいですよね。



団体戦での一コマ。
幼稚園児の陽逞くんと、一般の新田さんが対戦。
実は新田さん、この後の個人の部で優勝しています。



幼稚園児、なんと勝利! 思わずガッツポーズ。
まわりの大人からも歓声があがりました! 将来が楽しみです。



ALTのシャノンは、
「忘年会とかで毎回やっていて、面白くて好き。アメリカの友だちにもなんこを紹介したい」と、
なんこを気に入っているようです。正座もバッチリ。


団体の決勝戦では、中学3年生VS小学生きょうだいチーム。
小学生負けてしまって、本当に悔しそう!



個人の部では、54名がエントリー。
いつも落ち着いて冷静な戦いかたをする小学生も。カッコイイ!



個人の部の準決勝。
大人の真剣勝負に、子どもたちも興味津々。



個人戦で新田さんに負けた子どもたちが、自分の夢を託し、
一緒に応援。連帯感が生まれています!



個人の部、3位決定戦。
平成17年生まれの小学1年生 VS 昭和18年生まれ今年70歳の徳永先生。
年齢差60歳以上!!



すべてが終了し、閉会式。表彰が行なわれました。



< 団体の部 >

【 3位 】 チーム「新極真いろいろ」 

左から古仁屋小学校2年坂中くん、4年の西田くん、茂野くん。


【 準優勝 】 チーム「伊藤きょうだい」

左から古仁屋小学校4年生の伊藤雄大くん、2年生の凛くん、5年生の楓華ちゃん。 


【 優勝 】 古仁屋中学3年生チーム 「チョッパー」。

左から早川くん、山畑くん、徳永くん。


< 個人の部 >

【 3位 】 徳永允さん (すみません写真撮りそびれました)


【 準優勝 】 栄 勘太くん (古仁屋小学校5年生)



そして「初代 なんこ瀬界一」に輝いたのは、
【 優勝 】 新田 孝博さん (一般)


決めセリフは「勝負ですから」。

見ている人を惹き付ける迫力のパフォーマンスとともに、
華麗に勝っていった新田さん。

子どもにも手加減なしに勝負の厳しさ、
そして面白さを継承(!?)してくださって、
大会を盛り上げてくれてました。





はじめは、子どもが参加して楽しいのかな?と思いながら、
見ていたこの大会。

初めての子も、あっという間にルールを把握し、
待ち時間中も自分たちだけで、どんどん練習し夢中に。

小学生だということを感じさせないぐらいの真剣な表情で、
その戦いぶりに、惚れ惚れするほどの子も。

子どもたちは「なんこ」という文化がシマにあることを肌で感じ、
世代を超えて楽しめた大会となったようです。



2013.2.24 瀬戸内町 古仁屋 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内




  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 17:17Comments(0)行事・イベント

2013年02月22日

久慈 ユセィ釣り大会

旧暦一月一日にあたる、2月10日。

旧正月のこの日、ちょうど日曜日ということもあり、
島内各地では旧正月を祝う会、ナンコ大会など、
さまざまな催しが行われたようです。

瀬戸内町の久慈(くじ)集落では、「ユセィ釣り大会」が開催されました。


「ユセィ」とは、和名エソ。
一般的に、カマボコなど練り物製品に使われる魚です。

旧正月に、なぜ釣り大会? なぜエソ?と、
疑問を抱きながら、久慈集落へと向かいました。





久慈は、瀬戸内町の中心部・古仁屋から西へ、車で約40分のところ。
75世帯、人口125人(平成25年1月末現在)の集落。
久慈小・中学校もあります。


集落に到着したのは、午後2時半過ぎ。
公民館前には、すでに人がいっぱい。




そこへクーラーボックスを抱えた人たちが次々にやってきていました。

ちょうどユセィ釣りから戻ってきた人たちが計量しています。

いろいろな魚を釣っていても、
計量の対象となるのは「ユセィ」のみ。

この日一日で釣ったユセィの総重量と、
一番大きいユセィ一匹の重さを量っています。








旧正月恒例となる、「久慈 ユセィ釣り大会」。

今年は、男性23名、女性6名、子ども1名の合計30人の参加でした。


この日は、朝7時30分に公民館前に集合し、開会式。

午前8時、集落に軍艦マーチが流れるなか、
それぞれの船に乗って一斉に出港。

その後は、自由に釣りを楽しんで、
午後3時までに計量を終える、というルールです。

参加費は男性1人1,000円。女性と子どもは無料。
この会費は夕方からの反省会費込み。



計量した結果は、どんどん表に書き込まれていきます。




待っている間に、婦人会のみなさんが準備してくださったうどんをいただきました。
シマの行事の時によく出されるこのうどん。
シンプルなんですが、とっても美味しいんですよね。



「まもなく3時です。計量の終わってないかたは早く済ませてくださいー」と
集落で放送が流れます。

やはりみなさん、ギリギリまで粘ります。


ユセィは、東シナ海など暖かい海域に分布し、
このあたりでは久慈・薩川湾に生息。

水深70~80mで活動する魚で
漁期は12月~翌2月までの3ヵ月間ほど。


▲町内のスーパーなどでお目にかかったことない・・・と思います。


昔から、久慈ちかくの集落、花天・伊目・古志あたりでは、
正月料理のヒムン(焼き魚)として、このユセィを使用。

現在、ヒムンは生の魚をそのまま焼いていますが、
昔は、いったん干物にしたものを焼いていました。
そのためユセィは正月時期の保存食として重宝されていたそう。


以前は、この時期になると
それぞれユセィ釣りに出かけていました。

「遠くまで行かないと釣れない魚だから、船を持っている人の口にしか入らない高級魚。
だから正月に大切に食べられていたんだろうね」と、集落のかた。



参加者が釣った魚は、個人で持ち帰ったり、
あとは反省会で食べたり、集落の希望者に分配。

とくにお年寄りのかたがたは、ユセィをもらうのを楽しみにしているようで、
思い入れのある魚だということが分かります。




こんなふうに、ほかにも美味しそうなお魚が釣れているのですが、
あくまでこの日の主役はユセィです。



今では旧正月の恒例行事となっているこのユセィ釣り大会。

昔は、正月用にそれぞれユセィ釣りに行く習慣が、
集落の娯楽として、大会化されたもののようです。

一番最初に開催された正確な年号は不明ですが、
約30年ごろ前からスタート(昭和52年にはすでにあったという証言もあり)

途中、中断した年もありましたが
「地域の食文化に根づいているユセィ釣りの楽しさをみんなで味わおう」と、
その後再開。


さて誰が優勝するでしょうか? みなさん気になります。



結果を集計している間、
婦人会のみなさんが反省会用のユセィをどんどんさばいています。




「ほら、ハブの顔みたいでしょう?」。

婦人会のかたが見せてくださいました。
確かに頭が三角で、するどい顔つき!



「塩をふって焼くのが一番美味しいですよ。
小骨が多いけど、好きな人は骨切りにして刺身や、背越しにして酢味噌で食べる人もいますよ」。

この時の反省会用には
開いてブツ切り・塩で味付けして片栗粉をまぶし、から揚げに。

ちなみにヒムンで使う時は、
頭を切り落として二枚開きにし、塩焼きにしたものを切って使用するとのこと。



さて、計量もすべて終わり、
反省会の準備が整いました。

もちろん乾杯でスタート!


そして表彰です。

子どもの部は、久慈小中学校に通うくるみちゃん。
この日は、イベントがあったり、中学生はテストが近かったりで
校区の子どもの参加がくるみちゃん1人だったけど、よくがんばりましたね~。




この日ユセィを一番多く釣った「大漁賞」は、合計4.74kgの福島さん!



そして、「大物賞」は、一匹が1.07kgの龍元さん。
「自分の小さい頃は(昭和28年生まれ)、
正月頃にはずらっ〜とユセィを干しいて、保存食にしていた。
内地に一旦出てたけど、シマには昭和52年に戻ってきて、大会には毎回出てる」。



このあと龍元さんが釣ったのを見せていただきましたが、
他のものと比べ物にならないぐらい大きくてビックリ! 

▲左のが「大物賞」を獲得したユセィ


2月10日にちなんで210gに近い人は当日賞、
女子の部の表彰、ブービー賞も。


受賞者が発表されるたびに、会場は大盛り上がりでした。





お待ちかねのユセィのから揚げが登場です。


小骨が多いので心配していましたが全然気にならず、
外はパリパリ、中はふっくらと揚がっていて食感もバツグン。
白身の上品な肉でとっても美味でした。




旧正月ということで、ヒムンも配られていました。



反省会の間、シマのみなさんに
ユセィにまつわるいろいろなお話をうかがいました。




現在、ユセィ釣りの餌はキビナゴで三本針の仕掛け。

昔は、擬餌針の一本仕掛け。
擬餌針は、赤や黒の羅紗の着物を短冊に切って輪ゴムで付けたものや、
輪ゴムをタコに似せて作り、石をおもりとして使用。

ノーという糸巻き(今のリール)で釣っていたそう。
ノーで釣る時は、おもりの石に糸をくるくる巻いたものを海中に落とし、
海底近くで石がはずれ落ちると同時に、ふわりと擬餌針が舞って魚を誘うという釣りかた。

擬餌針を躍らせる必要から、
釣り人は船の上で、糸をうまく操らなければならなかったそう。

その様子が踊っているように見えたことから
久慈では「踊り上手は、釣り上手」と言われてるとか。




昔は、それぞれで釣りに行き、
贅沢な魚なので正月用として特別に食べていたユセィ。
現在でも新暦の正月には、ヒムンとして食べているそう。

そんなユセィは、集落にとって大切な存在。
話はつきません。

この久慈ならではの食文化を残していこうと、
旧正月の行事として、みんなで楽しみながら集落で守っています。




大物賞を取った龍元さんが
こんな言葉が久慈にはあると教えてくださいました。

「 ティバンシャヌハナヌ サキュンコロヤ、ハナユスィヌクユリ 」

ツワブキが咲く頃は、ユセィが釣れる


また、

「 ティバンシャヌ マンカイシュンコロヤ 、フテサンユセィヌクユリ 」

ツワブキの花が満開に咲く頃には、大きいユセィが釣れる




旧正月の頃に、旬を迎える魚「ユセィ」を
その季節の花が咲く様子になぞらえる。

ティバンシャ(ツワブキ)も、
大晦日のウヮンホネ(豚骨)との煮物にかかせない食材。


まさに自然に寄りそった、
シマ(集落)の暮らしをあらわす素敵な言葉に出会えました。












2013.2.10 瀬戸内町 久慈 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内




  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 15:15Comments(0)旧暦の行事

2013年02月20日

請島番外編 ウミヘビの話

請島に行った時の
ホエールウォッチング ・ 大山ミヨチョン岳トレッキング )

番外編として、ちょっと小ネタです。

加計呂麻島、請島、与路島を紹介している
ガイドブック「まんでぃ」
請島・池地集落ページに出ている大きなデイゴの木を見に行きました。


このデイゴはガジュマルに抱かれており、ちょっと不思議な感じです。

▲ガジュマルに抱かれるデイゴ

今回、この木の下になんとも面白いものがみられました。

このデイゴの木の下には川が流れています。



誰かが川に向かって
「あっ、ウミヘビだ!」と言いました。


ウナギじゃないの?と思い見に行ったら、なんと本当にウミヘビが川を泳いでいます・・。

▲川をおよぐヒロオウミヘビ



これは新種のカワヘビでは?と冗談を言いながら、10分ほど行動を観察しましたが、
なんども護岸の岩の上に登ろうとしては諦め、
隙間があると頭を突っ込ん入っていこうとしてました。

▲岩の上に登ろうとしているところ


この行動を見る分では、多分ですが海から川に入り、
産卵のできる場所を探していると思われます。

島でウミヘビといわれるものは、「魚のウミヘビ」と「爬虫類のウミヘビ」がいます。

今回見たウミヘビはヒロオウミヘビという爬虫類のほうですね。

ウミヘビは、トカゲやカメと同じ爬虫類なので、
海に暮らすにもかかわらず、
肺で息をして、卵も陸の上で産んでいます。

これまでの研究で、岩の隙間などに産卵に来ることが知られています。


ヒロオウミヘビで一回の産卵で5個とか卵を産むみたいですよ。

私もまだウミヘビの産卵地を見たことがないので、
奄美でも産卵地を見つけて、
ぜひその状況を見てみたいものです。



S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 

現場監督 水野





2013.2.7 瀬戸内町 請島 池地 

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内



  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 16:15Comments(0)請島

2013年02月14日

請島 大山ミヨチョン岳トレッキング

第5回 島案内人育成講座でホエールウォッチングを体験した一行。

午後からは、請島の大山(おおやま)、ミヨチョン岳トレッキングです。

目指すはこの雄大なパノラマの景色!

▲S.B.Iの動画班「iLand」さん提供


大山は、請島最高峰で標高398m。
貴重な野生動植物が多く生息、その保護のため入山申請が必要です。

必ず、瀬戸内町教育委員会(0997-72-0113)に申請したのち、
池地集落のボランティアグループ「みのり会」へ連絡・同行のうえ入山してください。


大山の代表的な植物が「ウケユリ」。
5月末~6月上旬頃、
山奥の岩場で、気品ある香りを放ち純白の花を咲かせます。

ササユリの変種で、請島や奄美大島南部に分布していますが、
最近では、請島以外では見ることが難しくなってきており、
”幻の百合”となりつつあります。

大山のウケユリ自生地は、県の天然記念物にも指定。

他にも町指定天然記念物「ウケジママルバネクワガタ」など、
数多くの貴重な動植物が存在。

それらの乱獲防止や保護のために、
池地集落の方々がボランティアグループ「みのり会」を結成し活動しています。

集落の区長・益岡さんによると、現在メンバーは6名。
この日も、みのり会のメンバーでもある益岡さん、
元区長の福島さん、民宿みなみの息子さんの3名が同行してくださいました。


ガイドは、スローガイド奄美の富岡紀三さん。



富岡さんが瀬戸内町観光協会に在職中に制作した
「山と遊ぼう。」というトレッキングマップには、
動植物が掲載されているので、そちらも参考に。

また請島にも、ハブがいるので
もちろんハブにも気をつけなければいけませんが、
ダニにも注意してくださいとのこと。

みのり会の福島さん曰く、
「ダニは自分が小さい頃はいなかった。イノシシが請島に入ってきてからダニがいるようになった。
イノシシは加計呂麻島から泳いで渡ってきたと言われてる」。


そんな大山にまつわる話や、注意点などを聞いてから、
いざ入山!です。



みのり会のみなさんが、杖を準備してくださっています。
もしもの時は、ハブの用心棒にもなりますね。



ミヨチョン岳までは、
ここから片道約40分ほどの山登りです。

みなさん予想していたより、けっこうハードな山道。
息もゼイゼイ・・・。

この日は、天気も良好。
ふつうに冬の格好だと、すぐに汗ばんできました。みんな一枚、一枚脱いでいきます。
こういう時は、洋服で温度調節できるように素材や着るものも工夫が必要ですね。
靴も、山用のトレッキングシューズがベター。



途中、富岡さんから珍しい植物などの名前を教えてもらったり。

「キイレツチトリモチ」

▲ツチトリモチ科の1年生寄生植物で、葉緑体を持たないために光合成ができず、
トベラやネズミモチなどの根に寄生。10月下旬~11月下旬中旬にかけて、
高さ3~11cm、直径約2cmの円筒形で淡黄色の花茎を出す。


「カゴメラン」

▲山地の林内に生える多年生草本。茎は直立し、高さ10~25cm。
花期は秋の終わりから冬にかけて、円錐状の穂状花序に淡黄色の花を多数つける。


挫けそうなところで、視界がパッと開けてきました!
池地集落です。「でもここで下るってことは、また登るんだよな」と、つぶやきが・・。



もうどれくらい歩いているか分からなくなります。
最後のほうも道は険しいので、気は抜けません。



そして到着ーーー!!

ちょっと霞んでいましたが、
目の前に広がる素晴らしい眺望は、がんばって登った人だけに与えられるご褒美です。



ここには大きな岩がいくつか並び、その上に立っている状態。
真下は断崖絶壁。

昔は、このミヨチョンの頂きが徳之島に向かって矢のように尖っていましたが、
大正12年の地震で崩れ落ちたそう。
この時落ちたとされる砕けた岩が、下に散らばっています。



その神々しい景色は、まさに請島の聖地。

昔は、このミヨチョンから
ノロ神が真鍮製の鉦(しょう /シマの人は”タライ”と呼んでいた)を叩きながら、
そのままカミミチを通って、ミャー(広場)に下りてきて祭りを始めたという場所。

その鉦の音は、大山の高い場所で叩いていても、
人里まで聞こえたとか。


なかなか来られないこの場所。
興奮気味で、みんな記念写真を撮ったり思い思いに過ごします。



名残惜しいですが、そろそろ帰りましょう。



帰りは、だいぶ余裕も出て瀬戸内町の情報交換。

町で近々ある番組のロケが行われるけど、
来島する芸能人は誰だ?・・なんて話で盛り上がりました。



帰りは30分ほどで到着。
おつかれさまでした!



登山口から集落までの道をほんの少し歩いて、
見晴らしのいい「夕日台」へ。
昭和38年生まれのかたが”49歳の年の祝”記念で作った展望公園です。



眺めがいいので、女子トーク。




誰も怪我することなく、無事に池地公民館へ到着。


池地公民館とクジラに関してこんなお話があります。

戦後、昭和22年に請島近くで約180頭のクジラを青年団が捕獲。

そのうち100頭以上のクジラを古仁屋、名瀬、徳之島などで販売したところ、
青年団の収入として当時として大金五万数千円に(クジラの頭一つで80円)。

売上金の使途について議論した結果、
コケラぶきの青年会館(いまの公民館のようなもの)を建設したそうです。
大工の工賃と材料で、売上の五万数千円費やしたとのこと。

その後数度の建て直しを経て、現在の公民館にいたります。


公民館からもミヨチョン岳の岩が見えました!



公民館そばには、忠魂碑が。
ここで戦没者などの慰霊祭として、旧暦9月14日前後に「招魂祭」という集落の大事な行事を開催。

昔はミヨチョン岳から集落へ降りるところにモリヤマと呼ばれるところがあり、
そこに慰霊碑が建っていたそう。その場所で相撲などの余興をしていたとか。

高齢者が山を登るのが困難なことから、
平成18年に新たにこの場所に慰霊碑を建立しました。



お世話になった池地集落の区長・益岡さん(右)と、前区長の福島さん。



もともとこの「みのり会」は、シマ(集落)のために何かできないかと集まったグループ。

公園整備や港の草刈り、年配の方の見回りや手助けなど
さまざまなことをシマのためにやっていらっしゃいます。

貴重な動植物保護するために、
大山へ同行しているのもその活動の一つ。

すべて自分たちのシマへの愛情ゆえですね。


みんなでお礼をし、請島をあとにします。



今回は、池地集落のみなさんにお世話になりました!







< 参考文献 >
・「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第2号」 『請島ノート』 町健次郎
・「池地校 創立百周年記念誌」
・「奄美 加計呂麻島のノロ祭祀」 松原武実
・「まんでぃ」 瀬戸内町役場まちづくり観光課








2013.2.7 瀬戸内町 請島 大山・池地 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内









  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 11:47Comments(0)請島

2013年02月12日

ホエールウォッチング

瀬戸内町の冬ならではの楽しみホエールウォッチングと、
請島にある大山ミヨチョン岳トレッキングに行ってきました。



今回も、瀬戸内町役場まちづくり観光課主催の
第5回 島案内人育成講座に同行させていただき、請島周辺の勉強です。

(第4回の様子はこちら→与路島 http://higyajiman.amamin.jp/e311256.html



案内を務めてくださったのは、町内でガイド業を営む3名のかたがた。

「ホエールウォッチング」を
ダイビング&ペンション RIKI 濱地武之さん、アクアダイブ コホロ 太田健二郎さん。

「請島 大山ミヨチョン岳トレッキング」は
スローガイド奄美 富岡紀三さん。



▲左より役場のかた、太田さん、濱地さん、富岡さん、そして島案内人育成講座受講生のみなさん。



瀬戸内町では、ホエールウォッチングを冬の観光資源として活かしていこうと、
町内のダイビン業者などが協力して、「カケロマホエールプロジェクト」を発足。

大島海峡周辺で見られるクジラ・イルカの調査や情報発信をしながら、
ウォッチングの体制を整えていこうと活動しています。

昨年11月には、瀬戸内町で「シンポジウム 奄美のイルカ・クジラ」も開催され、
町内での意識も少しずつ高まってきている感じがします。


カケロマホエールプロジェクトのブログでも
目撃情報が頻繁に更新されているので、
この日も「目の前で大きなクジラが見られるかも!」と期待ふくらませ、
まずは午前中のホエールウォッチングに出発!

受講生は2つの船に分乗しました。
別のポイントで探すことによって、よりクジラに出会う確率も高まります。

広報Kは、1班 コホロ太田さんのガイドで皆津崎沖へ、
現場監督Mは、2班 RIKI濱地さんのガイドで徳浜~請島近くジャナレ島沖へ。

まずはクジラの生態などについていろいろとお話を伺いつつ、
みんなでさまざまな方向を見て探します。



奄美大島でホエールウォッチングしやすい時期は、1月~4月上旬頃まで。

・見られるクジラの種類は、ザトウクジラ
・大きさは13~14m。体重は30トン、雌のほうが一回り大きい

かつての捕鯨で数は激減しましたが、1966年に捕鯨が禁止されて以降、
年々数は増加傾向。最近の推定個体数は15,000頭~。

奄美大島へくるザトウクジラは、
6~11月ごろまで北太平洋(オホーツク海、アリューシャン列島周辺、アラスカなど)でたっぷりと餌を食べ、
秋になると交尾・出産・子育てなど繁殖を目的に、奄美大島や沖縄などに南下。

繁殖海域では原則的に餌は食べないと言われ、
北太平洋へ戻る時には体重の3分の1が減るそう。



皆津崎沖に着き、近くにクジラがいるかどうか確かめるために、
太田さんが、海中にマイクを投入。

すると鳴き声のような不思議な音が聞こえてきました。

これはなんとザトウクジラが歌っている”ホエールソング”。

これには一同感動!! 
自分たちの船の近くにクジラがいるんだと分かり、みんなのテンションも一気に高まります。

このホエールソングは、まだ研究段階で謎の多い歌だそうですが、
繁殖シーズンに歌われることから、
オスからメスへの求愛をしめす「クジラのラブソング」とも言われているとのこと。

また、自分の大きさや存在、強さなどをライバルに知らせるためだとも考えられています。

歌にはいくつかのフレーズで構成される主題が存在。
よく聞いていると同じ歌を何度も繰り返し歌っているのが分かるそうです。
最近の研究発表では、「今年のヒットソング」や「流行遅れの曲」(!!)などもあるとか。

冬に潜りに来るダイバーは、海の中で体中に響くこの「クジラのラブソング」の虜になるかたも多いそうです。
ロマンチックですね~。



加計呂麻島の北東端から外洋に出て、徳浜の手前で見えてくるヒヨコ岩。
ヒヨコに見えます?



このヒヨコ岩を反対側から見たところ。「見返り猫」にも見えると言う人も



広報Kが乗った1班の船では、ホエールソングは聞こえるものの、
なかなかクジラが海面に登場してくれません。

なんとか見つけたいと、みんなあちこちを見渡します。

クジラを探す方法として、
まずは海面にあがっている飛沫がないかをチェックして見るといいとのこと。

この飛沫は、ブロー(潮吹き)と呼ばれ、
クジラが息継ぎのために海面に数回現れます。

その次に頻繁に見られるのが、息継ぎの後に
深く潜ろうとして尾ひれが上がるフルークアップ

これがいったん見えるとクジラは深く潜り、
平均して5~10分程度潜っているそうです。

海面に何か変化がないか、みんな目を凝らして見ていますが、なかなか現れません・・。


そこで、もう一隻のほうに様子を携帯電話でうかがってみると、
なんと請島近くでクジラが出たとのこと!!

われわれもそちらへ向かってる途中、
船長さんと、ガイドの太田さんがクジラを発見!

一同のテンションも一気にアップ!

みんなで次に現れるであろう方向をじーっと見つめます。

すると出ましたーーー!!



みんなの大歓声のなか、見えてるか見えてないか判らないまま
無我夢中でシャッターをきると、
ほんのちょっと尾ひれだけが撮れていました・・・。


ガイドの太田さんによると、どうやらペアだったようです。
この後、クジラは潜水しているため15分程度待ったのですが、なかなか現れず。

トラブルなどもあり、スケジュールが詰まっていたため、
泣く泣くその場を離れ、請島に向かいます。

われわれ1班は、この時の一度のみしか見られませんでした・・・。
 

    *


さて、もうひとつの船はどうだったのでしょうか?
2班の船に乗った現場監督Mから報告です。


  *  *


現場監督Mが乗船した2班の船の島案内人ガイドをしていただいたのは、
「カケロマホエールプロジェクト」の立ち上げメンバーである
通称リキさん(本名は濱地さん)。

昨年の11月に行われたイルカ・クジラシンポジウムでも講演された方です。

まず、よくクジラがよく見られる加計呂麻島の徳浜沖に移動。
余談ですが、徳浜の東にはライオンにみえるライオン岩がありますが、
反対側からも船なら見ることができます。

海から見ると、背中のまるい座ったブルドックのようですね。

▲ライオン岩ならぬブルドック?岩


さて、徳浜沖についてから回りを見渡すも、なかなかクジラが見つかりません・・。
そこでリキさんが水中マイクを海に入れ、クジラの鳴き声を聞くことに。

▲手釣りみたいですがマイクを投入しているところ


最初はなにも聞こえませんでしたが、移動しながら何度かマイクを入れていくと、
ついにクジラの鳴き声が!
声が小さいので遠くで鳴いているようでしたが、受講生は初めての生の歌声に感動です。

そうこうしているうちに、もう一隻からトラブルの連絡が・・。
請島につくまで1時間以上掛かるので、
クジラを探しに請島の南東(ジャナレ島付近)まで移動することにしました。


請島の東沖について探しまわること数十分、
参加者の1人が「あっ、クジラ!」という一言で、船上は騒然としました。

▲みんなで同じ場所を凝視中



そして第一発見から数分ぐらいで、船の正面でブロウ(潮吹き)が!

今回の第一発見者は、午後のミヨチョン岳トレッキングの講師でもあるスローガイド奄美の富岡さん。
さすが普段から自然の中を歩かれているだけあって、生き物を探す目がいいですね。

観察してると2頭のクジラが、ブロウしているのが見えます。
親子のようで、一頭はかなり小さめです。
▲並走する2頭のザトウクジラ


そのまま距離を保ちながらクジラウオッチングを楽しみました。

ブロウするたびに船の上では歓声があがります。
観察時間は1時間ほどでしたが、ブロウはいっぱいみられました。

また途中にはなんとフルークダウンダイブ(尾を出して潜っていく行動)が2回、
ペダンクルアーチ(背中を丸めて潜る行動)5回ぐらいもみられました。

▲フルークダウンダイブ


▲ペダンクルアーチ


さらには、2度ほど子鯨によるブリーチ(水面上に体を出してひねり水面に落ちる行動)
と思われる行動も見られましたよ!

▲ブリーチの練習らしきものの着水中


▲水しぶき


本当に感動です。なかなか飛んだ瞬間を写真にはおさめることができませんでしたが、
時間が押してきたのでクジラの海域を離れることに。

みな大満足で午後の大山散策のため請島に向いました。


請島に着くと、池地集落の方々が迎えてくださいました。

池地集落区長の益岡さん、元区長の福島さん、民宿みなみの息子さん、
3名の案内で公民館へ。

もう1隻の船が、遅れて着くというので、
先についた2班メンバー全員で昼食の準備をして待っていました。



 * * 


1班もだいぶ遅れて、請島に到着。
右上に見えるのが、午後から登る大山(おおやま)です。
だいぶ高いですね~。


請島の池地集落までは、
瀬戸内町の古仁屋港から町営定期船せとなみで行くと、約55分。




昼食は、鶏飯! 

受講生のひとりで、食育アドバイザー・フードコーディネーターの資格を持つ
太田美乃里さんが作ってくれたもの。

太田さんは、現在開催中の「あまみシマ博覧会」で
天然酵母のパン作りのガイドを務めていらっしゃいました(メニューはすでに終了)。


みなさん、思い思いに盛りつけて。



なんと鶏飯だけでなく、
舟焼きとシフォンケーキの手作りデザートも。


旬のタンカンも並び大満足。


午前中はずっと船上にいたので、
冷えた体を鶏飯のスープが温めてくれました。


請島の池地区長の益岡正人さんから、
集落についてのお話をうかがいました。



請島は、人口131人(平成25年1月末現在)。

この時うかがっていた公民館のある池地集落は71人。
もう一つの集落は、請阿室(うけあむろ)で60人が住んでいます。

集落の97~98%は年金生活のかたとのことですが、
畜産やソテツ栽培、電照菊などの生産が盛ん。

請島に唯一つ学校・池地小中学校、
郵便局などもあります。


池地の集落近くにある請島最高峰の大山(398m)には、
固有種の「ウケユリ」が自生し、「ウケジママルバネクワガタ」も生息。
どちらも町の天然記念物に指定されており、採集は禁止されています。

集落では、ボランティアグループ「みのり会」を結成し、
ウケユリの乱獲防止や保護、大山の案内などにも取り組んでいます。


今回は残念ながら
集落の中をゆっくり散策する時間がなかったのですが、
またゆっくりと見て回りたいと思います。


 * 


ホエールウォッチングに関しては、
近々ウォッチング自主ルールを策定し、
奄美クジラ・イルカ協会の体制を整えようとしている段階だそう。


現在でも、町内ダイビング業者いくつかホエールウォッチングに対応しているところがあります。

「カケロマホエールプロジェクト」のブログなどで活動の様子が分かります。
http://whalewatch.exblog.jp/


【 ホエールウォッチングの問合せ 】
ダイビング&ペンション RIKI 濱地武之さん
アクアダイブ コホロ 太田健二郎さん


瀬戸内町の冬の観光定番として、
気軽にホエールウォッチングが楽しめる日も、
そう遠くはないかもしれませんね。


  *  *



午後の、大山ミヨチョン岳トレッキングへと続く。




2013.2.7 瀬戸内町 請島周辺・池地集落 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 現場監督M ・広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内









  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 18:23Comments(0)請島

2013年02月08日

伝統的な潮干狩り「イザリ」

奄美以南の南西諸島では、イザリという伝統的な潮干狩りが行われています。

今年も数回ですが、
年末からこのイザリを調査してきました。

そこで、2011年に「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第6号」(※1)に
投稿した報告と合わせて、紹介したいと思います。




イザリは、潮干狩りといっても、行くのははなんと真冬の真夜中です!

1月とか2月なので、本州では氷点下になっている頃ですが、
奄美では夜でも8~10℃ぐらいなので、わりと普通に海に出られます。
ただ、北風がきつく吹くとさすがに寒い時もありますね。

さてイザリに行く時間ですが、大潮の一番潮の引く時間の前後です。

奄美では大潮の頃、
一番潮が引く時間が夜中の12時から2時頃。

一番潮が引く日は、なんと潮位がマイナス数十センチにもなります。


遠浅の浜へ行くと、普段は海の場所が、
ずーっと沖まで陸になっているいるのですごい不思議な感じがします。



干潮で取り残されたマンジュウヒトデ(これは食べません)


イザリはこの潮に合わせて行くので、
終わってから片付けが終わるのは午前3時とか4時になることも。

次の日が仕事でも、
イザリをする人は「もっとしたい、けど明日仕事だし・・、あっそろそろ潮も上がりはじめたかな・・」
といったように心のなかで葛藤しつつも、楽しみながらされているようですね。


もちろん真夜中の海の上なので、まわりは真っ暗。

満月ならまわりが見えるのですが、
新月の時は本当に真っ暗で、星や遠くの集落の光しか見えません。

私が調査で初めて同行したとき、
その星の綺麗さと、真夜中の海の上に立っている不思議な感覚に感動しました。

それと同時に、ちょっと説明しにくいのですが、
異界?がそばにあるのでは?とちょっと怖い感じがありました。

最近はイザリをせず写真を撮るだけのことが多いのですが、
それでも何か非日常を感じて、怖いながらもドキドキすることがありますね。


ちなみに宇検で聞いた小ネタです。

5人でイザリに行ったのに、
朝まで周辺に見えるライトが5つあった(本人を引いたら4つのはず)とかいう話も聞きました。
見られた方はケンムン?とおっしゃっていましが一体なんだったのでしょうか・・・。





真っ暗なので、獲物を探すのにライトを使います。

現在では大半の方が付け替え式ガスランプを使っていますが、
一昔前まではカーバイトランプ、さらにその前はたいまつや松やに、
ススキなどを燃やしてて明かりにしていたという記録もあります。

ススキってすぐに燃え尽きて、長時間使えないような気がするのですが・・・。
近年では新しい光源のLEDライトも少し増えてきたような感じですね。




道具といえば、イザリをする人の多くは使う道具を自作しています。

これもイザリのひとつの楽しみになっています。
例えば、これまで多くの人は竹製のテルを使ってきましたが、

近年ではプラスチックのカゴやナイロンのリュックなど、
様々な物を自分なりに加工した入れ物を利用しています。

また、貝をひろう道具にしても、いろんな道具を考えられ応用されていました。
中には親が作った技術を受け継いでいる人もいらっしゃいますね。




対象となる海産物は、貝類やタコがメイン。
瀬戸内町では大島海峡があり、あちこちに遠浅の干潟が多くみられます。
この干潟を中心にイザリが行われます。

また笠利によくみられる珊瑚礁のリーフでもイザリが行われています。

とる場所によって種類もかわり、中にはこれ食べられるの?みたいな種類もありました。
とる人によって好みが分かれるようですね。

ニギャブトゥ(レイシガイの仲間)やミソブトゥ(イモガイの仲間)といったように、
味がそのまま貝の方言名になっているのもあり、食に直結してて面白いですね。

とった海産物は、どんなに遅くても、すぐに茹でてからみんなで食べられる家もありました。


▲真夜中に調理されるスガリ(ウデナガカクレダコ)

ここでは食べるだけではなく、貝がこれだけとれたとか、
大きな獲物を逃したとか、今年はあまり見つからないなどその日あった話や、
昔話しも混じり、楽しそうに話していました。

また現在ではあまり見られませんが、
集落によっては浜で焚き火をして、イザリした人達で深夜の交流会をしていたそうですね。
こうやって普段とは違った人と人とのつながりもあったんでしょうね。



   
このように行われているイザリという行事ですが、
簡単に現在のイザリ状況をまとめると、

・イザリは主に漁師さんではない一般の町民が、冬の夜に自然に流れにしたがって期間限定でやっている。
・イザリをすることで準備する楽しみ、とる楽しみ、歩く楽しみ、食べる楽しみが生まれる。
・活動を通じて人と人との交流がある。

といったところでしょうか。

根拠はありませんが、
イザリは火などの明かりさえあればできるので、
島に人々が住みだしてから何千年も繰り返し行われてきたのではないでしょうか。

縄文時代の遺跡からも同じような種類の貝殻が出てきています。
もしかしたら昔の人もこうよう採取を通じて、
自然に対して畏敬の念を抱いていたのかもしれませんね。


大昔から続いてきたであろうこのイザリ、
今後も海の資源がなくならないようにを気をつけながら、
島の暮らしの一部として続いていってほしいですね。



現場監督 水野


< 参考文献など >
・恵原義盛 1973『奄美生活誌』西日本新聞社

・引用 「瀬戸内町立図書館・郷土館 紀要 第6号 2011」

(※1)紀要は、瀬戸内町立図書館・郷土館で購入できます。郵送も可能なので詳細はお問合せください。
 
瀬戸内町立図書館・郷土館 0997-72-3799

 






2013.01.11 瀬戸内町 某所

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 11:45Comments(0)民俗

2013年02月05日

与路島の戦跡 

第4回島案内人育成講座で行った与路島。

午後は、与路島の山のほうにある戦跡を見学しました。


▲第二砲台跡


瀬戸内町の大島海峡は
穏やかで天然の良港として知られ、
戦時、南方戦線へ向かう艦船などの中継基地として、
町内各地に軍事施設が整備されていきました。

第二次世界大戦中、
ここ与路島にも潮早(シュビヤ)山一帯に
旧海軍防備隊基地が構築されました。

その戦跡は、与路集落から車に揺られて山のほうへ約10分。
降りてからもどんどん山の中へ歩いて入ったところにあります。

この見学のため、集落のかたが歩きやすいよう歩道を整備してくださってました。
前の人を見失うと、途端に迷ってしまいそうな山道です。



昭和19年10月20日頃、潮早山に
佐世保海軍所属の奄美大島施設部
(加計呂麻島の三浦集落にあった設営隊)が工事を開始。


< 工事内容 >

・第一砲台、第二砲台
・地下弾薬庫
・発電所
・探照灯(照空灯)設置
・兵舎、その付属施設など

工事の人夫は、技術員を除き、与路島の人々を動員。
集落全世帯の割当て作業で、無報酬の労働でした。

なんと小学校2年生以上の児童が駆り出され、
下の黒ん間の浜から山頂の砲台現場まで、
毎日、砂や砂利などの材料を運んでいたとか。

現在、70歳代後半以上のかたは、この強制労働にあたってたわけですね。


▼第一砲台跡。ソテツや木々に覆われて、周囲の自然と一体化してますね



工具は、ツルハシ、スコップ、ジョレン、山鍬などの工具、
モッコ、背負いザルなどの運搬用具が主力の前近代的な作業状況。

最も苦労したのは、
大砲(約25トン)二門を海岸から砲台のある山頂(標高約200m)まで運搬したこと。

運搬用に開設した道路に道板を敷き、
2台のカグラサン(人力ウインチ)を用いて巻き上げ、
20日間以上かけて現場まで引き揚げ設置。


< 揚陸された軍備 >

・15cm砲 二門 
・13mm機関砲 一門
・7mm 機関銃 7門
・機関銃 1丁
・小銃 20丁
・てき弾筒 2筒
・地雷 300発
・手投弾  


▼第一砲台跡の中に入って、与路集落案内人の信川さんのお話をうかがいます



この防備隊基地の構築工事は、
昭和20年3月中旬頃には終了。

しかし備砲や探照灯は実戦に使用されることなく、
昭和20年8月15日に終戦を迎えます。

終戦を迎えた後、昭和20年9月に米軍が武装解除に来て、
黒ん間の浜に弾薬類を運び、すべての武器弾薬は海中に投棄。

大砲は砲身に弾薬を詰め込んで爆破し、探照灯も破壊。


この探照灯はシンガポールのイギリス軍要塞から運搬されたもので、光達距離が18km。

終戦後、一晩だけ夜空一帯を試験照射。
その明るさは真昼より鮮明で夜空を眺めた人々は感動したといいます。

また兵舎2棟は校舎として学校に譲渡されました。



▼第一砲台の中。約70年前のものですが、非常に強固な造り



▼なんと奥まで行くと、コウモリがいっぱい!
オリイコキクガシラコウモリのようです。




海軍防備隊が与路島に駐屯したのは、
昭和19年11月から、翌20年10月までの約1年間。

砲隊・照空隊合わせて、55名の隊員が駐屯。
現地招集で与路出身が3名入隊。

隊員の日常勤務は、敵の上陸に備え戦闘準備が主でしたが、
地域との交流を図り、田植えの手伝いなど住民との交流もあったそう。
なかには、島の娘と恋に落ちて、その後家庭を持った人も。
極限の中にあって、こんな話があるのはちょっと救われますね。


▼こちらは第二砲台。本当に自然なカムフラージュ






与路島も空襲を何度も受けています。

昭和19年10月に初空襲。
昭和20年3月13・15日、米軍グラマン戦闘機による空襲が連日のように始まり、
集落の90%が焼失しています。

人々は山の中の疎開小屋や、防空壕の中で生活をして
夜間は灯火管制下で闇の中を往来していたそう。




▼戦跡から戻る途中、ところどころに見晴らしのいいところが。
見えるのは加計呂麻島



▼この「黒ん間浜」から、工事の材料となる砂などを山頂まで運搬。
どれだけ大変だったことでしょう・・。
一番右にうっすら見えるのが加計呂麻島、そのとなりに須子茂離も見えます



▼ここからも「ハミャ島」が見えました



▼砲台跡付近に建てられていた記念碑。
「戦争体験を風化させまい」と、瀬戸内町大正会が建立。



誰も迷子になることなく、無事帰路につくことができました。



与路島の戦跡には、
現在、砲台や敷地、側壁隧道、
弾薬庫などが残っています。

戦争で使われたものがそのまま残っていて、
その実物を見ながら、戦争を経験したり工事に携わった世代から話を聞くことは、
迫力があり、戦争の話がより身近なものとして感じられます。
本当に貴重な体験でした。


 * *

この日は波も荒いということで、
予定より早く古仁屋に戻ることになりました。

与路島を案内してくださった、
(左から)保島さん、信川さん、けんちゃん、中村さん。
港までお見送りしてくださいました。


いつも本当に温かく迎えてくださり、
丁寧に与路島を案内して、
島のさまざまなことを教えてくださいます。


戦争、そしてサンゴの石垣積みなど
知っている世代がどんどん少なくなってきています。

もっともっと与路島のことを学び、
島のことを保存・記録をしていかなければと思いました。


待合所の「また おーりんしょれよ」(また、いらっしゃい)の文字。うれしいですね。


琉球時代、海上交通の要所であった与路島。

よそ者・物をオープンに迎えながら、
自分たちの文化はしっかりと守る気風があってこそ、
独自の文化・風土が生まれたのかもしれません。

与路島のみなさん、
本当にありがとうございました!





〈 参考文献 〉
・「 与路島誌 」 屋崎 一
・「 与路校創立百二十周年記念誌 」 与路校創立百二十周年記念誌刊行委員会
・「 瀬戸内町誌 歴史編 」 瀬戸内町




2013.01.17 瀬戸内町 与路島

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内





  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 11:40Comments(0)与路島

2013年02月01日

与路島の民具 / 与路小・中学校

与路島にひとつだけある学校、「与路小・中学校」。

明治12年に、与路島下等小学校として設立され、
創立130年以上を経ている歴史ある学校です。



現在は小学校6名、
中学校2名の合計8名。

教員も、校長・教頭・養護を含めて8名と同じ人数(!)。

校庭も手入れされていて
とても気持ちのいい学校です。






島案内人育成講座で、
集落を散策した際に、学校にもお邪魔しました。

与路小・中学校には、
島の民具が数多く保管・展示されているのです。


廊下には、厨子甕(ずしがめ)がズラリ。




「厨子甕」は、
奄美群島や沖縄で使われていた、いわゆる骨壷。

かつて土葬や風葬をして数年が経ったのち、
遺骨を洗って厨子甕に納骨していました。

現代の火葬用の骨壷より、サイズはかなり大型。

昔は、夫婦合葬や親子合葬なども一般的だったため、
2人分の骨が入る大きさになっています。

材質は主に、石灰岩製や陶器製の2つ。
こちらには、陶器製のものが並んでいました。
沖縄の壺屋で焼かれたものが奄美群島まで運ばれてきてたんですね。


形は、「甕型(かめがた)」と、「御殿型(うどぅんがた)」があります。

こちらは「甕型」。高さ約80センチ。

左側のものは、「ボージャー厨子」と呼ばれているもので、
形から”坊主”に似ていることからボージャーと名付けられています。
確かに、丸みが似ていますね。

また小さく開いている穴は、魂の出入り口とのこと。
ここから出入りして、旧盆に戻ってくるのでしょうか…。



こちらは「御殿型」。

釉薬をかけないで焼いているものを沖縄では荒焼(あらやち)と呼んでいます。
荒焼のものは、御殿型の初期に出現するタイプです。
高さは約60~70センチほど。




正面には、蓮華と法師像が。



瓦模様を刻んでいないこのタイプが、御殿型でも古いタイプです。


骨壷と言えば、ただの”入れ物”というイメージでしたが、
厨子甕は、装飾されていたり屋根瓦が刻まれていたり。

まさに”あの世の家”。

こうやって死後の世界にも立派な家を準備する
島の人々の先祖への気持ちは、素晴らしいですね。

これらの厨子甕を見て、わがS.B.Iの隊長は
「どれも良い品。町立郷土館にほしいぐらいです」と、呟いてましたよ。




またこちらの部屋には、多岐にわたる民具が展示されており、
学校にこのようなスペースがあることに驚きました。


器や壺、収納道具、農耕の道具など、
島の人たちが暮らしていくなかで使っていたさまざまなものが収められています。


中には、イ草などで作る筵(むしろ)を編む道具もありました。

与路島では、戦前から戦後にかけて、各家庭でイ草を栽培し、
筵(むしろ)を自給自足していた時代が。
昭和20年代には、製筵所を家業とした人もいたそう。
今でも3種類のイ草が集落に自生しています。


大島紬の糸繰りの道具なども


酒器、器など日常のもの。
右手前にあるのは「煙草盆(たばこぼん)」、と言うのですね。
煙管(きせる)でのタバコの吸い方も
ほとんどの受講生は知らなかったため、与路集落の信川さんに教えていただきました。








黒糖づくりに使う道具も。アクをとったり、かきまぜたり。
島でかつて盛んに行われた黒糖づくり。
その道具がいくつもありました。


与路小・中学校では、おとなり請島の池地小・中学校と集合学習をしており、
キビ刈りなどから黒糖づくりの体験をすることもあります。


別室には、サタグルマ(鉄輪圧搾機)も!

昔は、馬や牛をつないでこの棒を回しサトウキビの汁を搾っていた道具。
学校の黒糖づくりでは、子どもたちが押して体験。
サタグルマが学校にあるなんて、与路島ならではですね。


余談ですが、与路島から寄贈された鉄輪圧搾機が
瀬戸内町立図書館・郷土館にも展示されています。





S.B.Iの隊長曰く、
『いろいろな資料の中には、遺跡から出たと思われる遺物が!
中国の焼物の青磁、白磁。徳之島で焼かれたカムィヤキも。
南蛮や薩摩焼などさまざまな焼物が無造作に置いてありました。

現在は、アクセスが大変な与路島ですが、
このような資料を見ると、
重要な海上ルートの一つだったことが分かります。

実は、与路島は遺跡の宝庫。
今後、大発見があるかもしれません』。



学校の一角にあった「水がめ」。
昭和8年、集落の人たちが寄付して作ったもの。
毎日、子どもたちが担当を決め水を汲み、ここに貯めて使用。
「いっぱいになるまで貯めるのが大変だった」と、案内人の信川さん。



水がめの横にあるのは、
与路島出身の親ノロ「大アムシャレ」の碑。


「大アムシャレ」とは、
奄美が琉球王国に服属していた時代、
最高神官の次の位に任命された親ノロのこと。

琉球王国の南北3カ所のみ配置され、
親ノロとして、その地域のノロを支配し、祭政一致の政策を司っていました。

与路島は、当時、徳之島の山(サン)と同じ行政区分で、
ある時、与路島出身の人物が、大アムシャレに任命されました。

それが、与路の津止家の生まれ、本名クゥイチャン。

その与路の大アムシャレが首里城の王府に参内した際、
連れていった姪のタンムイバンに悲劇が起こり、
琉球からの帰路、与路島の近くになって大アムシャレは姪の死体を抱え入水自殺。

村人が深い悲しみの中、
サンゴ石を海から一度も地面に落とさないようにずっと手渡しで運び、
ノロ墓を造って大アムシャレを丁寧に葬ったとあります。

本来の大アムシャレのノロ墓は、もっと山の中にあるそうですが
行き来するのが大変だろうとのことで、
この場所に碑を建立し、話を伝えています。


高位高官の親ノロが与路島にいたというのも、
当時の与路が琉球王朝の中で
重要な位置づけであったと考えられますね。




学校に、これだけの民具や資料が保管・展示されてあり、
子どもたちが身近に昔の島の暮らしに触れることができるのは、素晴らしいですね。

与路島にまつわる貴重なものを見せていただきました。


学校に興味があって中を見学したいかたは、
ぜひ職員のかたにひと声かけてください。







〈 参考文献 〉
・「 与路島誌 」 屋崎 一
・「 与路校創立百二十周年記念誌 」 与路校創立百二十周年記念誌刊行委員会




2013.01.17 瀬戸内町 与路島 与路

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内





  


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