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2018年05月17日

瀬戸内町内の戦争遺跡を観光する皆様へ


いつも「あまみ ヒギャジマン プロジェクト」をご覧いただきありがとうございます。


***

最近,「瀬戸内町の戦争遺跡」についての問い合わせが増えており,
このことに関しまして皆様へお知らせとお願いがあります。


本ブログでは,これまでに戦争遺跡についての情報を掲載しておりますが,
これらの箇所は『観光地』として紹介しているものではありません。

公園化されていない戦争遺跡での観光は,不法侵入になる場合もありますので,ご遠慮下さい。

また、戦争遺跡は70年以上経過している施設跡であり,いつ崩落するかわかりません
さらに,ハブの出現崖下への転落の可能性も非常に高いです。




以上の事から,瀬戸内町役場より,
下記の点についてお願いがありましたので,お守り下さい。


≪瀬戸内町役場からのお願い≫

①戦争遺跡での観光は,公園化された戦跡公園のみでお願いいたします。
 (ただし,加計呂麻島・安脚場戦跡公園への道路は,2018年5月現在,通行止めとなっております)

②戦争遺跡への観光は,ガイド付きでお願いいたします。
 (ガイドのお問い合わせは,瀬戸内町観光協会へお願いいたします)

③戦争遺跡は,70年以上経過している施設であり,崩落の危険性が非常に高い施設があります。
 また,ハブの危険性もありますので,危険な個所への立ち入りは絶対に行わないで下さい。



瀬戸内町役場観光課
瀬戸内町教育委員会社会教育課  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 14:06Comments(0)奄美大島請島与路島戦争遺跡

2013年06月06日

58号線

先週は、528(古仁屋)の日で盛り上がりましたね!!


その時、作ったロゴ
こちらは、あまり反応がありませんでしたが…

130528古仁屋ロゴ②
58号線の標識をもとにしました。






今日は、そんな58号線の「おはなし」です。


奄美大島にお住まいの方は、必ずお世話になる国道58号線ですが、
130605 58号線 阿木名
皆さんご存じ!鹿児島~沖縄における、交通の大動脈です。






起点は、鹿児島市の西郷さん銅像前。
さいご うさん ですが、起点です…

130605 58号線 鹿児島市
鹿児島市内は、700mほどで終わります。





そして、海を越え
種子島を通り、奄美市笠利町里(赤木名)に上陸。
それから奄美市名瀬を通り、
古仁屋へ至ります!


古仁屋から、また海を隔てて、
沖縄の「ごっぱち(58)」につながります。
130605 58号線②
このこと、皆さんはご存知でしたか?
(私は初めて沖縄に行った時、奄美大島と同じ58号線とは思いませんでした…)
沖縄の58号線は、九州・沖縄の国道で、最も交通量が多い道路とも言われているんですよ。



つまり、奄美大島の国道58号線は、古仁屋が終点で、次は沖縄に続くんですね。
鹿児島県の58号線の最後の地。

それが「古仁屋」なんです。






130605 5号線①
意外と、知られていない?58号線の話。


もし、誰かに「国道58号線の鹿児島県 最南端は、どこでしょう?」
と、問いかけられたら、こう答えてくださいね!
奄美大島、瀬戸内町の「古仁屋!」





で、本当の、端っこは、石碑のところじゃなくて、ここ。
130605 58号線 終わり
矢印が、ここまで!ってなっていますね。
古仁屋に来られたら、58号線の端っこを探してみては、いかがですか?



特に、沖縄の方は「え!ここが、ごっぱち?」となるかもしれません。

私とは、逆の反応でしょうが…(#^.^#)





2013.6.6 瀬戸内町 古仁屋

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 隊長鼎

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 08:30Comments(0)奄美大島

2013年03月01日

油井の稲作 種もみまき

2月26日(火)、油井集落の田んぼで、
米づくりの最初の作業「種もみまき」がありました。

作業したのは、油井小中学校の子どもたち。

場所は、学校のすぐ近く、須佐礼(すされ)にある田んぼです。


昨年の12月に同学校の子ども餅つき大会を見学させていただきました。

その時に知ったのが、
油井では集落で田んぼを所有し、餅米を育てているということ。

学校の子どもたちも体験学習や子ども会の行事として
一年を通し稲作に参加しています。


この田んぼで収穫した餅米と藁は、
旧暦8月15日、油井集落の十五夜豊年祭で披露される
伝統芸能「油井の豊年踊り」(鹿児島県指定 無形民俗文化財)で使用。

餅米は、赤飯にして敬老者に供し、
藁で、演目の一つの綱切りや土俵を飾る縄などをつくっています。

(ちなみにこの田んぼで作っているのは餅米。
縄を作るのに、餅米の藁(わら)のほうが長くて適しているそうです)



  * *

この日準備していた「種もみ」は、
昨年約60kg収穫した籾のうち3kg分ほど。

2月2日から籾を二晩ほど水に浸けておき、
ざるにあげてから毎日水をかけて発芽をうながしてできたのがこの種もみ。

自然とはよくできたもので、寒いと発芽はすぐ止まり、
暖かいとすぐ伸びてくるそうです。


まずは、油井集落の区長であり、
油井豊年踊り保存会 会長の内田 百一(うちだ もいち)さんが、まきかたの見本をみせます。



それでは、油井小中学校の子どもたちも、裸足になって田んぼに入って作業です。






このどろどろの感触、たまらないですよね!



やっぱりこうなっちゃいます・・。


でも、これが楽しいんですよね。



種もみをまいたあとは、
防風・防虫、日除けなどのために寒冷紗(かんれいしゃ)をかけていきます。



飛ばないようにしっかりと抑えて。







区長さんにお礼を伝えて、この日の作業はおわり。



田んぼから学校までの途中の川で、汚れた泥を落として。
こんなことが、授業で体験できるのもうらやましいですね。



この日は、いい天気だったのですが、さすがにまだ川の水は冷たかったようです。



  *  *


「稲作があってこその、伝統文化・郷土芸能があるんです。
まずは稲作を守っていかないと、意味がない」と、内田区長。


稲作は、油井にとって集落を象徴する存在。

油井小中学校の子どもたちも稲作を体験することで、
シマの伝統文化や、結の心を学んでいけるいい機会です。



次はこの種もみが約10~15cmぐらいに伸びて苗となった頃に、田植え。
4月中~下旬でしょうか。


集落の田んぼは、約60坪。昔はこの一帯で稲作をしていたそう。

今年一年、油井集落の田んぼがすくすくと成長し、
豊作となることをお祈りしています。

また田植えの頃が楽しみですね。







2013.2.26 瀬戸内町 油井 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内


  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 14:04Comments(0)奄美大島

2013年01月30日

消防 救急艇「おおとり」

26日の文化財防火デーでは、
瀬戸内町の消防のかたがたの指導で防火訓練が開催されました。

その際、われわれは加計呂麻島までの往復を
消防の船に同乗させていただきました。

ん? 消防に船!?

そうなんです!
瀬戸内町の消防には、船が配備されております。

それがこの、”救急車”の船版、救急艇「おおとり」

▲上に、赤いランプが。出動している時は、もちろん回ります
  


町民のみなさんには、おなじみな存在でしょうか?

消防に船があるなんて、
今回、初めて知ってビックリしました。

考えれば
瀬戸内町は、奄美大島の一部、加計呂麻島、請島、与路島と
4つの島からなる町。


診療所はあっても、
医師の常駐していない加計呂麻・請・与路島に急患が発生した場合、
奄美大島にある大きな病院へ搬送する船が、どうしても必要になります。

各島から救急患者が出た場合には、
看護師さんや家族の要請を受けて出動。


もちろん救急車と同じなので、
火災、救急・救助とすべての役割を担っています。



▲「おおとり」の船内では応急処置も行います


また奄美大島側でも
花天(けてん)・管鈍(くだどん)・西古見(にしこみ)へは、
消防分署のある古仁屋から陸路で行くよりも早いので
「おおとり」の出番となります。


島々の高齢化も進んでいることもあり、
出動要請は年々増加傾向。

月に16回ぐらい出動することもあり、
一年平均にすると、
140~150件もの出動があるとのこと(3分の1が夜間)。


年に1,2回あるかないかですが、ハブ咬傷で運ばれるかたもいらっしゃる
というのも、島ならではですね。


▲担架を運んだり作業をしやすいように、デッキ部分は平ら



古仁屋港~加計呂麻島の生間港まで
通常かかる時間は、町営フェリーで20分、海上タクシー(貸切船)では、約15分。

「おおとり」は出動した場合、
この同じ距離を6~7分で行くそうです。

まさに海の上の救急車!

なんと消防ポンプも装備されているので、消火活動も可能。
救急車+消防車の役割もあるのですね。

ほかにも海難事故、行方不明捜索、船舶火災など
さまざまな場面で活躍しています。




瀬戸内町の消防のかたがた。
正式には、「大島地区消防組合 瀬戸内分署」のみなさん。



鹿児島県内の市町村で
この救急艇が配置されているのは、瀬戸内町のみ。

九州でも長崎県内に一艇あるだけとのこと。



瀬戸内町に「おおとり」が配備されたのは、
第1号が、昭和43年の救急専門船。

その12年後に、消防の小型ポンプも装備された第2号、
そして現在の3号目となる船が平成11年3月に就航。

今の3代目「おおとり」も、あと4~5年したら更新される予定だそうです。


島々からなる瀬戸内町ならではの
われわれの安全と命を守る、心強い存在です。






2013.01.26 瀬戸内町 古仁屋 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内


  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 14:09Comments(0)奄美大島

2013年01月19日

噂(!?)の古志ダイコン

先日、S.B.Iのマチ博士に、図書館職員のFさんより面白い情報が入りました。

それはFさんの親戚が瀬戸内町の古志(こし)集落で
古志ダイコン”なるものを作っているとのこと。

古志ダイコン、現在市場で見かけることはありません。

この古志ダイコンは普通のダイコンと違い、
表面には色がついているという情報も。

奄美で地域ブランドとして有名なダイコンといえば、
奄美市名瀬の有良(ありら)集落で作っている「アッタドコネ(有良大根)」があります。

なんと南部にもこんなダイコンがあったんだ!ということで、
マチ博士、隊長&現場監督で調査に行きました。


 *


古志部落誌『古さとを語る』に古志ダイコンの記載があります。

古志は昔から農業が盛んで、
戦前は「古志ダイコン」が高く評価されていたようです。

古志ダイコンを定期船で古仁屋に持って行くと、
荷揚げする間もなく仲買商人が船に乗り込んで
その場でセリ合が始まるほどだったと書かれています。

また古志ダイコンのことを「先ず味がよい、色彩もよくやわらかい」ともありました。
色がついているというところが今回の情報と一致しますね。


 * * 


それはぜひ見たい!ということで、
Fさんより紹介してもらい、噂の古志ダイコンを作られているお宅へ向かいました。

ダイコンを作られているおばあさんの娘さんの案内で畑に行くと、
そこには、遠くから見ても確かに不思議な色をした普通でないダイコンが!



近くに寄ってみると、まさに赤紫のダイコンではありませんか! 



はしゃいでいると、実際に畑をやっているおばあさんがやってこられました。

お話を聞くと、現在は80代ですが、300坪の畑を一人で管理されているのだとか!
畑の野菜はみんな元気で活き活きとしています。




この古志ダイコンを作っているおばあさんから話をうかがい、ダイコンを観察してみました。

特徴として
・色がつくのは地上に出ている部分の表面のみ。ダイコンの中身と土中は白色。





・普通のダイコンに比べて葉の色が濃い。さらに茎の部分にもうっすらと紫色が入っている。



・昔の古志ダイコンはもっと細長くて濃い紫色だったが、最近は色が薄くなってしまった。
これはタナグリしたため。(タナグリとは他のダイコンの花と受粉して混ざり交配していくという意味だそうです)

・以前、他の集落の人に種を分けたが、そこでは植えたダイコンに色がつかなかった。

使い方としては
・切り干しがいい。
・種がいっぱいできるので、毎年一区画残して種を取り、翌年種をまいて葉が出たところで収穫することが多い。
とのことでした。



お話を聞いた後にひとつお願いしたら、快く古志ダイコンを分けていただけました。
なかなか食べることができないので、いくつかの料理にしてみました。


普通のダイコンと古志ダイコンです。こうやって並べるとやっぱり違いますね。
古志ダイコン(下)と、普通のダイコン(上)



おばあさん曰く、「既に時期が過ぎて花が咲きそうなので皮が硬いかも、
皮を厚めにむいて食べてね」ということでした。皮をむくとぱっと見は普通のダイコンですね。 




< 作った料理 >

◎焼き魚と大根おろし (隊長談)
「ダイコンをすりおろすと収穫したばかりからか、すごくみずみずしい大根おろしができました。使ったのは先端の方ですが、苦味はなくピリッとした辛味がありました。焼き魚と合いますね。またおソバにも合いそうです」。







◎切り干し大根 (隊長談)

ダイコンを切った直後、短冊状に切り、ロープにかけて干します。



4日も経つといい感じにしおれています。



5日後にはほぼ完成。割いてバラバラにしました。 



「さすがに皮を向いて作ると見た目は普通の切り干しですね。
できた切り干しダイコンを、水に戻し他の野菜と煮付けてみました。
食感が普通の切り干しより弾力が有るような感じでしたね」。




◎生でそのままかじる (現場監督)
「とりあえず薄く輪切りして生でかじってみました。
皮が赤い上部と先端の方を両方かじってみましたが、普通のダイコンより辛味とアクが少ないような気がします。もう少し早い時期なら生でかじることも可能では?というような味です」。


◎水炊き (現場監督)
「大きめに輪切りして昆布と与路の塩でシンプルに炊いてみました。
皮をむかずに炊いたところ、赤色がほとんど抜けて、見た目は普通のダイコンのようです。
味は、一緒に炊いた普通のダイコンと大きくは変わる感じがありませんでしたが、普通に美味しかったですー。
ただちょっと残念なのが、もうすぐ花の咲く時期で、食べるにはちょっと遅いことから、かなり固くなっていました」。




最後に
「平成17年度 国土交通省 奄美群島生物資源の産業化・ネットワーク化調査」
http://www.amami.or.jp/kouiki/seibutsusigen/detail_vegit/vegit_detail_21.html
に古志ダイコンの記載がありました。

ここでは「耐暑、耐病性が強く、早まきでもウイルス罹病症状が発生したことがないという」と書かれています。

大根に関しては、アッタドコネと古志ダイコンの2つしか取り上げられていないので、
地域限定の珍しい品種だったと思われます。

ただ、一般的に古仁屋などに出回っていたのは戦前の話のようで、
残念ながら、どの時代からこの赤いダイコンが入ったかわかりませんでした。

品種としては、現在一般的に出まわっている赤大根の紫色のにすごく似てますね。

今回、ダイコンを作られているおばあさんから、
「種ができたら置いておくからね」と言っていただけました。

赤くなるかはわかりませんが、
種をもらったら図書館の庭で体験的に作れればと思います!


現場監督 M


< 参考文献 >
・『古志部落誌 古さとを語る』 瀬戸内町教育委員会(昭和55年発行)





2013.01.11 瀬戸内町 古志

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内
  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 11:50Comments(0)奄美大島

2012年12月27日

銭湯 嶽乃湯

瀬戸内町 古仁屋の、
細い川沿いにある「嶽乃湯(たけのゆ)」。

昭和18年創業、古仁屋に唯一残っている
昔ながらの銭湯です。



ジェット風呂や子供用の浅い浴槽などもあり、
とくにサウナや水風呂は男性に親しまれています。




常連さんが多く、
90歳を過ぎたおばあちゃんも
毎日歩いて通ってくるとか。

お話を聞いてた時も、
午後3時の早い時間からひっきりなしにお客さんが来ていました。




番台を守っているのは、大正15年生まれの古谷さん。
昭和24年にお嫁に来てから、
ずっと嶽乃湯の歴史を見続けてきました。

昨年4月、長年連れ添ったご主人・昇さんを亡くされ(享年89歳)、
息子さんと営業を続けています。

自分の名前でなく、亡くなったご主人の名前を出してほしいとおっしゃるので、
便宜上&親しみを込めて”おばちゃん”と呼びますね。



番台に座り続けて、63年。
嶽之湯の顔であるおばちゃんは、昔話をいろいろと教えてくれます。

「終戦後は、軍の司令部が近くにあったから、兵隊さんがいっぱい入りに来てた」
「このへんは焼け野原で、疎開小屋がいっぱいあってねー」
「昭和33年の古仁屋の大火後には、昭和湯、千歳湯、朝日湯とウチの4軒銭湯があってね」
「昔は、建物を柿(こけら)板で作っていた時もあったよ」





嶽乃湯は、昭和18年創業。

それまで満尾湯として営業されていましたが
当時の経営者が戦争とともに鹿児島本土へ引き揚げ、
亡くなった昇さんの父・武之介さんが買い取りました。

おばちゃんに嶽乃湯の名前の由来を聞くと、
「分からないけど、おじいちゃんが武之介だったからかもね~」と。


営業を始め2年経った昭和20年、
建物は空襲で一度目の焼失。

また昭和33年12月27日にあった古仁屋の大火では
市街地の90%が焼け野原になる大惨事に。
近くの市場から出火したため、嶽乃湯もふたたび全焼してしまいましたが
翌年すぐに立て直し。

そして平成5年、創業から3度目の建て直しを経て、
現在の姿となりました。


  * *


初めて嶽乃湯に来た時に、
ときめいてしまったのがレトロな木製の靴箱や脱衣ロッカー。

この木製の鍵なんか、たまらないですね。


こちらは古仁屋の大火の後、
昭和34年に、昇さんが大阪まで行って注文し作らせたもの。

買い換えようと何度も思ったけど、
「お客さんたちが『絶対に古いままがいい』って言うから新しいのに替えられないのよ」と、おばちゃん。
私もそう思います。

磨いて大事にしているのがよく分かるツヤです。



脱衣所も、昔懐かしい器具がそのまま(使えるかは?)。
常連さんも多く、マイ洗面器とおふろセットが並んでいます。




佇まいが昭和の面影を残し懐かしいのはもちろん、
嶽乃湯の魅力は、山から引いた水を使い、薪でお湯を沸かしていること。

やっぱりお湯ざわりが柔らかくなるんでしょうか、
お客さんから「薪で沸かしてますか?」と聞かれることもあるそうです。



創業当時は水道がなかったので、
近所の3軒くらい共同で山から水を引いて、
現在もその山水を使用。

そして、燃料の薪。



終戦後から、平成5年ぐらいまでは古仁屋に製材所が3ヶ所あり、
亡くなった昇さんは、オートバイにリヤカーをつけて
おがくずや薪を集めていて、その姿は古仁屋の名物だったとか。
時には宇検村まで行くことも。

「年とったから止めてって言っても、聞かなかったねー」と、おばちゃん。
昇さんは、70歳ぐらいまでリヤカー引いて回ってたそうです。



昔はどこの銭湯も薪で沸かしていましたが、
時代とともに、薪の入手が難しくなってきたり、管理の大変さから
重油で沸かすところが増えてきました。
 

嶽乃湯の釜は、重油と薪を併用できるもの。

一時期は、重油だけを使っていましたが、
重油の価格が高騰したこともあり、
現在は、できるだけ薪で沸かしているそうです。




もちろん燃焼具合をこまめに見たり、
木材を集めるのはとても大変な作業。

息子の守昇さんが温度を保つために、
30分に一度温度を見ながらこまめに薪を足しています。

昔ながらの「まちのつながり」で、今でもなんとか古材などを入手することができ、
薪で沸かすスタイルを続けています。




「嶽乃湯に嫁いでからすぐに番台に上がったけど、
若いころ、大阪で阪急電車の出札口で券の販売をしていたから、
こういう仕事は慣れていたのよ。

この番台の中で、3人の子育ても、ぜ~んぶしてきた。

昔は年中無休だったし、寝る時間が2~3時間しかなくて、
キツくて逃げようと思ったこともあった。

本当に、ようがんばってきたと思います。

なにより話したり、お客さんと接するのが楽しいからね」。


戦後の混乱、米軍統治、
そして54年前の今日起こった古仁屋の大火など
さまざまな時代を乗り越え、
とにかく元気に毎日番台に座っているおばちゃん。

大晦日・元旦も、お客さんを待っています。




年末年始の営業は、

大晦日 : 平常通り(13:00~21:00)、
元旦 : 朝7時~11時まで
2日、3日 :  お休み 
4日から  : 平常営業 


元旦は、一年の一番風呂を求めてお客さんがいらっしゃるため、
朝7時から11時まで営業。
「うちは、それからやっとお正月を迎えられるのよ」。



▲”おばちゃん”。話をしていると、「これが1番よー」と、瓶入りの珈琲牛乳をごちそうしてくれました。
お風呂上りじゃなかったけど、とっても美味しかった!



暖かい奄美では、ついついシャワーで済ませがち。
でもさすがに年の瀬も押し迫ってくると寒さを感じますね。

たまには、ひろーい湯船に浸かって、
手足を伸ばしてリラックス。
薪で焚いた軟らかいお湯で、心も体も温まりませんか。

一年のさまざまなものを年末にきれいさっぱり洗い流すもよし、
元旦に、新年の一番風呂を迎えるのもいいですね。





【 嶽乃湯 】

瀬戸内町古仁屋松江12

営業 / 午後13:00~21:00
休み / 月2回 (第1・3日曜日)








2012.12.20

瀬戸内町 古仁屋 

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内





  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 16:28Comments(0)奄美大島

2012年12月20日

久根津、捕鯨時代の思い出

大正時代と、昭和30年代に捕鯨基地があり
とても賑わった久根津集落。

以前、その歴史について触れました。
 「久根津とクジラのかかわり」 http://higyajiman.amamin.jp/e299861.html 

当時のお話をうかがおうと集落をまわったところ、
象徴的な時代を覚えていたお二人に運良く出会えました。

まず一人目は、
大正11年生まれ、現在90歳の久原ミスエさん。

久根津で捕鯨会社が最初に操業したのは、大正元年~10年ごろ。
その当時はミスエさんはまだ生まれていないので、
ミスエさんの捕鯨でにぎわった頃の記憶は大人になってからのもの。
密航船の来ていた昭和20年代のお話です。


ミスエさんは、戦争中満州にいて
昭和22年に奄美大島へ引き揚げてきました。

戦後、本土復帰(昭和28年)前の米国管理下、
まだ地元の漁協から何も言われず、、
密航で捕鯨船が入って、クジラを自由に獲っていたそうです。


▲久根津の久原ミスエさん


ドラが3回鳴ると、人であふれた久根津

「その頃は自由で、クジラを食べ放題でした。すごかったです。
それは今でもよく覚えています。
捕鯨船も貨物船も来てにぎやかだったし、クジラで久根津はだいぶ潤いましたよー。

密航の船だったので、クジラを解体してあらかた肉をとった後、
身のいっぱいついた骨も何も捨ていていって逃げるようにして帰っていってました。
肉を取った後は内蔵を捨てっぱなしにしていたから、臭かったですね。
そのうち2~3年して、こっちの漁協がやかましくなって密航船も引き揚げていきました。


捕鯨船はクジラを獲って帰ってくると、
皆津崎から大島海峡に入って、
古仁屋の沖合いを通過するあたりでドラを3回鳴らしてね。

それを聞いた瀬戸内の人たちは、
みんなそのまま走って久根津に集まってきた。

クジラの解体場(現在の奄美養魚)では、身のついた骨そのままポーンって捨てていたから、
私たちは、それを剥ぐために包丁を研いで肉剥ぐのを待ってたんですよ。
あちこちのシマから自由に来て、人々が群がりよったからすごかったです。

クジラの頭も投げ捨てていたし、肉がいっぱい付いたまま骨をバンバン投げ捨てていましたから。
肋骨などは自分の作業のしやすいところに持って行って作業するんです。

もう最高でしたよ~。
持ちきれないほどクジラ肉を持って帰ってきました。

4斗樽の大きな樽にみんな塩漬けして10年ぐらい食べたのを覚えていますよ。
冷蔵庫のない時代だったけど、塩漬けしていれば大丈夫だったから。

捕鯨船の乗組員は、内地の人。
久根津の人で船に乗る人はいなかったです。

クジラが獲れたら金儲けがあった。
日当で現金収入があったので、シマの人は招集されていた。
男性はクジラの解体の応援、女性はクジラを引き上げる滑車を回す役目でね。
クジラの尻尾をロープでくくって、それを引き上げるんです。
昔の砂糖車みたいに回してボツボツ引き上げていた」。


▲クジラ解体処理に使われた包丁(瀬戸内町立図書館・郷土館所蔵)。
刃渡り約45センチ、本来は柄が約2~3メートルあり、
高い位置の処理に使ったとみられる



クジラの食べかた

「うちの主人が区長をしていたから、
クジラが獲れたら必ず何十キロかの肉の塊を船長さんが区長のためだと言って持ってきよったです。
砂糖醤油で炊いたり、塩をかけてちょっと干からびたのを焼いて食べたり。
主人は刺身(生姜・酢・醤油)で食べていました。

皮はカワンムィと方言で言ってました。皮が美味しいんです。
オバは尾羽と書いて、これは尻尾の部分。

船員はオバも捨てていたから、私などはすぐ走ってオバの部分を取りにいった。
オバは茹でて、塩して、熱い湯をかけたらクリっとなるので、
野菜と混ぜたり、酢味噌で食べたりしましたよ。
オバ(尾羽)などは大きな皿に盛って食べていた。

クジラの皮を油で揚げることもあった。それを大きく切って油でから揚げにする。
それを「アブラカス」と言って、前は売っていましたけどね。
新鮮なブエン(刺身)では油が強いから、揚げることで油抜きになった。
それを冬とかは野菜と一緒に炊いて食べたりしましたね。

舌も美味しかったんですよ。舌は焼いて食べる。

私たちはクジラ肉がいよいよなくなるという時に、塩漬けして食べた。
塩漬けを食べる時は、茹でれば塩分が取れるからいいんですよ。
焼いて肉を子どものおやつにもしていました。

クジラの肉で1番上等は霜降り。
船員が赤肉を持ってくる時があったら、
『白が混じっているのがおいしいですよね、船長さん』と言うと、
次からは霜降りを持ってきよった。

ほんとうに美味しかったですね」。


集落を潤したセンピリョウ(千尋)

「クジラは捨てるところは何もない。

腸のことをセンピリョウ(千尋)と言って、
大きな腸だが、それが美味しいのでよく食べました。

密航船の船員は内蔵は処理できずに畑に埋めていったので、
それを見た集落の人たちは、
親田原(現在の民宿「よーりよーり」)のところに小屋を建てて
内蔵を茹でて食べられるようにする施設を建設してました。
クジラ肉よりも内蔵が美味しいと評判になったんです。

集落で内蔵やセンピリョウをいっぺんにもらって処理をしてきれいにして。
食べやすいように切って、茹でて。
それを安くで古仁屋で売りよったんです。

センピリョウの味付けは砂糖醤油が普通。
野菜のダシにしたり。

古仁屋から競争して買いにきたほどで、
久根津はクジラのセンピリョウ販売でずいぶん潤って、集落費も稼ぎましたね~」。



青年団の資金作り

「青年団が資金作りしたのは演劇でした。
青年処女団だから結婚していない人たちで運営していた。
今で言えば80歳代後半の方々で、亡くなっていない人も多い。

戦争から引き揚げてきた人たちが芸達者が多くて、
ギターを弾く人、脚本書く人、監督みたいな人がいて垢抜けた芝居をさせていて大評判でした。
あちこちから演劇をまたしてくれと頼まれることがあって、
資金を稼いで真っ先に公民館立てたのも、公民館に畳を入れたのも久根津が最初です」。


「親戚」も増えた!? 久根津の人々

「昭和22年に満州から引き揚げてきて、
ほそぼそと芋なんか植えて食べれるようにしたり、サトウキビ植えたり。
少しずつ収入ができたけど、つらかったですよ。波瀾万丈でした。

自分たちで食べるぶんの野菜を作って自給自足だった。
あの頃はお肉など自分でお金出して買って食べる人はいなかったでしょう。
捕鯨会社がきて、ずいぶんいい思いをしました。

クジラの肉剥ぎをしていたあの時、
久根津の人たちは、今まで知らなかった『親戚』がたくさんできましたよ。
これで親戚ができて、今でもつきあっている人もいますからね。

戦争で、瀬戸内全部が食べ物のない時代にクジラのおかげで助かった。

いま思えば、夢みたいな時代でしたね。
もうあんな時代は二度とないでしょうねー」。





    *   *





もうお一人、捕鯨時代の思い出をお話してくださったのは、
久根津集落の区長、久原章司さん。
昭和30年生まれの57歳、現在、集落にある「奄美養魚」にお勤めです。






▲久原章司さん。奄美養魚の敷地にあるクジラの肋骨

「クジラが揚がった記憶は一回だけ、昭和36年の時。
クジラが揚がった最後で
私が小学校1年生の時に母親におんぶされて見た記憶があります。

当時は製糖工場も稼働していて(現在の教員住宅は製糖工場跡)、
『クジラが揚がった~!』とか言って、ムラがにぎわっていた。

滑車を大木にかけて男性陣が『ヨイショ、ヨイショ!』と声を合わせてクジラを引いていた。

ムラの青年なんかは、
ポケットにいつもナイフを入れて持っていってね。

クジラの油ですぐ切れなくなるから、
手に砥石を持っていって、ギシギシ研いで荒削りに骨がなったらぽんと投げて。

われわれはそれに群がって、
肉を缶詰に入れて醤油にかけて食べたら美味しかったー。


▲外浜と呼ばれる奄美養魚の敷地。大正元年の火災で最初のクジラ解体場所が焼けたので、
大正2年にここに移転。昭和20年、戦争で当時の施設は全焼した


クジラは油井の端っこ(奄美養魚の場所)で解体していた。
久根津は冷たい風が入ってくる。急に海が落ち込んで深い港があるので、
捕鯨施設を作るには立地が良かったんでしょうね。

捕鯨基地があった時代の施設のコンクリートなど、
残っているものなどは何もない。

でも海岸にはクジラの肋骨が一本残っていて、今でもそのままにしてる。
海の中に潜れば、骨はたくさん堆積してるはずですよ」。









▲現在の「奄美養魚」の敷地。このあたりに、巻揚機があり鯨を引き上げていたとのこと。
いまはその器具などはなにも残っていない


「クジラが揚がった最後の時を見ていて、
たった一回だったけど、
その時のことは強烈に覚えていますよ。

高校一年生の時には、
久根津の海で沖縄海洋博のイルカのオキちゃんが調教されているのを見て、カッコイイな~と思って。
自分も海の仕事をしたいと思ったんです。
何かの縁だったのかもしれないね」。




▲奄美養魚の事務所に飾られているクジラの脊椎




    *    *

大正に生まれ、戦争を経て、米国管理下にあった時代の奄美大島、
そして昭和を生き抜いてきたミスエさん。

うっとりした表情で語られるそのお話は、聞いているそばから
どんどん映像となって
色鮮やかに頭の中に浮かんでくる臨場感あふれるものでした。

ミスエさんが自分の90年の人生の中でも
「1番いい時代だった」と言わしめるほどの輝かしい時代だったようです。

そして、クジラが揚がったたった一回のことを鮮明に記憶している久原さん。


強烈な体験をしたお二人から直接語られる話は、
歴史資料などには載っていません。

個人の体験をその本人から聞くことは、
こちらにもダイレクトに響いてくる
貴重で、本当に面白いものだと実感しました。


こういった生のお話を聞ける機会を増やし、
もっともっと記録していきたいと思います。





2012.10.3

瀬戸内町 久根津

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 広報K

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内




  


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2012年11月07日

古仁屋豊年祭・敬老会 

10月28日(日)、瀬戸内町のせとうち海の駅横・緑地公園で
「古仁屋豊年祭ならびに敬老会」が開催されました。

当日は、同時に海の駅で「クロマグロのまち! 瀬戸内町 第1回 食の祭典」が開催されたのもあり、
周辺は大変な賑わいとなっていましたね!


さて、古仁屋の豊年祭・敬老会は、
古仁屋青年団によって運営されています。

古仁屋青年団は、その年に25歳になる男女が中心となり、毎年メンバーが入れ替わる団体です。

青年団は毎年、祭りに向けて、
OBやOGの協力のもと一年をかけて準備していきます。

当日は、司会にOB、踊りにはOGも参加されていました。先輩から後輩へ、代々引き継がれていますね。

最初は、力士による振り出しからです。
団長がホラガイを吹きながら、力士が土俵入りして、中央の盛ってある砂を広げます。
広げた後はしっかりと地を踏みこみながら、こぶしを突き上げていました。








振り出しが終わると豊年祭の始まりです。

開会式の挨拶がひと通り終わると、力飯が入って来ました。


力飯は竹製のカゴに入れられ、ハイビスカスで飾られています。
これまで幾つかの豊年祭を見てきましたが、
力飯をハイビスカスで飾る所が多いようですね。

力飯が配られると、女性陣による踊りがいくつもおこなわれ、
踊りの最後には力士も混ざって、六調で締められました。















余興などが終わると、
小学生相撲、赤ちゃんの土俵入り、青年団相撲甚句、
一般の相撲と相撲関係が続きました。








古仁屋の青年団による相撲甚句も見もので、
10分近く土俵の中を回りながら歌い続けます。





夕方には無事すべての行事が終わり、
最後に浴衣の子供たちと一緒に八月踊りで締められました。










多少雨がぱらつくこともありましたが、
無事すべての行事が終わったのでよかったですね。


私は島外(石川県)出身ですが、
10年前にたまたま同じ年の友人(島では同窓という)に誘われ、古仁屋青年団に入り手伝いました。

相撲や踊り、島の飲みなど初めての事ばかりで楽しんだのを覚えています。

また準備などを通して、同窓の友人が一気に増えました。
そのおかげで今でも同窓チームで舟漕ぎをしたり飲んだりしています。

こういった地域行事から横のつながりが生まれ、生活に広がりができるのっていいですよ!
今後も若い人の手で、無くなることなく継続していければいいですね。



現場監督 水野





2012.10.28
瀬戸内町 古仁屋


S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内

  


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2012年10月12日

西方の小ネタたち

9月27日のシバサシの前日
古仁屋から西古見までの西方(にしかた)エリアの
ほとんど全部の集落を回っていろいろと見てきました。

そこでちょっとおもしろい小ネタがあったので紹介します。


郵便局の自転車

久慈の郵便局で、なんと郵便局仕様の自転車を見つけました。
ハンドルの中央とペダルのチェーンカバー横に
郵便局のマークがちゃんとついています。
すごい丈夫そうな自転車ですね。現役で動いているのを始めて見ました。
なにか雰囲気があっていい感じですね。



トタンを曲げる機械

西方調査の途中、家の軒先に不思議な道具が。
ちょうど家の方がいたのでお話を聞くと、トタンの屋根の山頂を曲げる道具とのこと!
こんな道具があったんですねー。
一度使い方を見てみたいですね。かなり年季が入っており、重厚な作りになっていました。



家の前の砂ひき場

油井のとある家の方の玄関の外に、不思議な木の枠が埋まっていました。
これは何ですかと聞いた所、砂を敷き詰める枠だというのです。
住んでる方も何に使うかわかりませんとのこと。何かの行事につかうものでしょうか?
もし知ってる方がいらっしゃったら教えて下さいー。



桜が咲いていました!

9月末頃に新聞記事にもなっていましたが、
久慈でも桜の花が咲いていました!
春と勘違いしたのでしょうかね。 ちょっと時期はずれですが綺麗でした!



海軍の表札

古志のある家のなかに海軍用地の標識がありました!
手前には古い井戸が。
「おっ、これは大正ぐらいから使ってる井戸では?」と思い、
近くの家にいた集落の方に聞いてみることに。

聞いたところでは井戸と標識は関係ありませんでした・・。
ただ、古志の林道を上がっていくと、山中に用水池と砲台跡があるとおしゃっていました。

どちらも「40年ほど前に山に登った時にみたよー」とおっしゃっていたので、
もしかしたらまだ残ってるかもしれませんね。
今度調査しないと!
ちなみに標識は、当時はその林道沿いにあったとか。
これもまだ残ってるかもしれませんね。


以上、西方の調査で見つけた小ネタでした。
やっぱりあちこち行くと、いろいろと面白いことがありますね。



2012.09.27
瀬戸内町 油井・古志・久慈


S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会) 現場監督M

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内







  


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2012年09月15日

清水 八月踊り

ある夜、清水(せいすい)集落の公民館からシマ唄が聴こえてきました。

近寄ってみると、
町内にお住まいの森さんが三味線片手に「朝花節」を歌っているところ。
挨拶代わりにまず最初に歌われるシマ唄です。

森さんを囲んでいるのは、
大阪からやってきた近畿大学の6名の学生さんたちと、
引率の清(きよし)教授、講師の図師(ずし)さん。
一行は、8月21~28日、
奄美合宿のため来島中でした。



シマ唄の歌詞、三味線についてなど森さんが解説。

学生たちは初めて聴くシマ唄で歌詞は分からないものの、
何かを感じ取っているよう。


この近畿大学の合宿は、
文芸学部清 眞人(きよし まひと)教授のルーツが瀬戸内町にあることから、
4~5年前にスタート。

学生たちは、清水集落の公民館で寝泊まりしながら、
ここを拠点にさまざまなシマの体験していました。





今年参加した学生は、文芸学部5名、経営学部1名。
専攻も日本歴史、世界歴史、現代文化など多岐に渡っています。

なんと、この合宿は単位にはならないんだとか!

それでも、学科・学部を越えて集まってくるのは、、
主体的に奄美への興味を持ち、学びたいという学生たち。
それだけ、魅力的な合宿のようです。



清教授の合宿の目標は、「奄美を徹底的に遊ぶ」。

大きな目的としては、
・奄美の伝統的な文化や暮らしにふれる <シマ唄、八月踊り、集落の人との交流>
・奄美ならではの遊びを体験 <シュノーケリング、マングローブカヌー> 
・島の人との意見交換 <Uターンで島に戻ってきた若い世代がどのような仕事についているか話を聞く、また大阪の若者がどのような関心を持っているかを島の人に聞いていただく>

だそうです。

実際に学生たちが体験したものは、

・シマ唄、三味線演奏
・海遊び(シュノーケリング、バナナボート)
・加計呂麻島 徳浜 塩工場見学 
・加計呂麻島 渡連 集落散策、浜辺で貝採り
・ケンムンについて話を聞く
・清水集落 八月踊りに参加
・旧暦七夕の行事体験 <竹を朝立てる、朝露(若水)で墨をすって願い事を書く>
・マリンスポーツショップ Uターン若手経営者に話を聞く
・貝アクセサリーづくり
・清水集落 92歳のお年寄りに話を聞く
・奄美市住用町でマングローブカヌー、モダマ・フナンギョの滝など山歩き
・奄美市名瀬の根瀬部集落散策、神山、カミミチ、石敢当を知る

(以下は台風で中止)
・加計呂麻島 徳浜海岸 テント泊
・近畿大学マグロ養殖場 餌付け

などなど。


清水集落の人たちと一緒に八月踊り。



なかなかこういった生の八月踊りは、
観光だと体験することができませんよね。




見よう見まねで踊ってみます。



こちらの学生さん、
「ボクは地方の生まれで、こういう所で子どもの頃に踊った記憶がよみがえってきて楽しいです!」
と、終始笑顔。



今回の合宿は帰る直前に、台風15号の最接近と重なり、
最後に予定していた「私の奄美体験とエコツアープランづくり」発表会が
残念ながら中止になってしまいました。

しかも帰りの飛行機は欠航につぐ欠航、帰る日を一日延期せざるを得なく、
宿泊先では停電にも合うダブル?トリプルパンチ。

引率の図師先生によると
「いろいろと大変な目にあったのですが、
現実の島の暮らしの一端を垣間見ることができて、
学生にとっては結果的にすごくよい経験になったと思っています」とのことでした。


近畿大学の文芸学部、文化歴史学科には
今年度から「文化資源学」というコースができ、
「各地に眠る文化を掘り起こして、まちおこしに活かそう」というテーマに取り組んでいるそうです。

「奄美合宿を文化資源学の実践の場にしたい」とのことですので、
今後の近畿大学の取組みに注目、
そして協力していきたいですね。

 * *

この夏だけでも、瀬戸内町には、
岡山理科大学東海大学、東京経済大学、東京外国語大学など
学生の合宿や調査での来町があり(もうすぐ沖縄国際大学も)、
年間を通してその数も年々増えているようです。

それだけ、奄美、そして瀬戸内町には
調査研究したいものがたくさん眠っていて、
魅力的ということでしょうか。

また加計呂麻島では、
学生を民泊で受け入れも少しずつスタートしています。

彼らの調査・研究テーマを知ることは、
われわれにとって、
さまざまなヒギャジマン=瀬戸内町の宝を発見するチャンス。

瀬戸内町としても受け入れ態勢を整えて、
みなさんをお迎えしたいですね。



2012.08.21・23
瀬戸内町 清水

S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会)

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内




  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 23:47Comments(0)奄美大島

2012年08月01日

嘉鉄湾

台風9号、10号とダブルで発生しておりますが
いまのところ風などほとんどない瀬戸内町です。

瀬戸内町の、
奄美大島と加計呂麻島で挟まれた大島海峡は、年中穏やか。

そのため国際避難港となっており、
本日も外洋が荒れているので多くの船が避難しております。

そんな大島海峡の東端のほうにある嘉鉄湾(かてつわん)。
写真は28日(土)のものです。



瀬戸内町の中心部・古仁屋から7~8分。

マネン崎展望台を過ぎて、
嘉鉄集落へと行く途中で望める風景です。

いつ見ても、この美しいブルーのグラデーションにうっとり。
とくに夏の青さは格別です。

ダイビングでも人気のスポット。
豊かな海中の世界が広がっています。

島外から奄美に来て
住みはじめたものにとって、
家からほんの数分でこんな風景が広がっているというのは奇跡に近い感覚です。




2012.07.28
瀬戸内町 嘉鉄湾


S.B.I (瀬戸内町 文化遺産 活用実行委員会)

鹿児島県 奄美大島 瀬戸内町立図書館・郷土館内


  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 14:46Comments(0)奄美大島

2012年06月16日

節子の集落内を歩く

節子(せっこ)の海岸にあるフアンキャに行ったあと、
少し集落内を歩きました。



シマの世帯数は5月末現在で84、
人口は135人。


小さな集落には、ほとんどある商店。
節子にもありました。


看板はなく、普通の家かな?と思う感じ。

自動販売機の下の連絡先に
「祝(いわい)商店」の名前があるだけです。
初めて来たら、ちょっととまどうかもしれません。

でもシマ(集落)の人は
ここがお店だって分かっていますからね。





先客がいらっしゃいました。
重たいので、
家に配達してもらうよう話をしてました。
集落に住むお年寄りに優しいシステムです。


商店の前でお店の方と話をしていると、
シマのかたが何人か通って
会話が始まります。
これがシマ歩きの楽しいところ。





簡易郵便局。





鮮やかなセンネンボクが飾られたお墓。



「せっこ村バス待合所」と名付けられてました。








新しくてきれいな公民館。








とあるかたの玄関先にあった貝。
片方にツノが出ているのがクモガイ。
魔除けとしてよくシマの家の玄関口にあります。

両方にツノが出てて、
漢字の「水」に似ているのがスイジガイ。
こちらは火事よけの願いをかけておかれています。



現在休校中の節子小中学校まで行きたかったのですが
真っ黒な雨雲がこちらに向かってきたので、
残念ながら戻りました。





節子は青壮年団活動が盛んで、
舟漕ぎ競争も強い。
豊年祭も若い方の参加がけっこう多く
盛り上がると聞いてます。


また今度ゆっくり節子集落内を散策したいと思います。



2012.06.07
瀬戸内町 節子

S.B.I (瀬戸内町文化遺産活用実行委員会)




  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 16:43Comments(0)奄美大島

2012年06月14日

節子のフアンキャ

いざ節子(せっこ)集落の海岸へ。
この日は、海側からしかアプローチできない
砂浜”フアンキャ”へ行きます。


ちょうど集落のかたが出ていらして、ちょっとお話。

「竜宮城に行ってきて、
若くなる玉手箱もらってきてちょうだい」と見送られました。



節子の海岸に出ました。
S.B.Iの隊長Kと現場監督Mが
どんどん先に行きます。




ゴツゴツしだしました。
このへんはまだ序の口です。





ちなみに隊長Kは長靴にスパイクみたいなのをつけてます。

現場監督Mは漁サン(ギョサン=漁協のサンダル)。
「これが一番すべらなくっていいっちょ」。
でも指がむき出しだから・・。

あまりに対照的な二人の格好。







隊長は細い岩のトンネルを通って向こう側へ。
現場監督Mと広報隊員Yは崩れたら怖いので
海側を通りました・・。





これから後はロッククライミングさながらだったので余裕がなく、
写真を撮られませんでした。



途中、貝をとってきた集落のかたとすれ違いました。
ベルトのところにイショ(貝採り)道具をはさんで
引き締まった体つき!
ふだんからこんな所に来ていればああなるんでしょうね。
カッコよかったです。



着きましたー!
ここがフアンキャです。




大きなガジュマルがありました。
手前のほうは根もとがでていて、
アダンもからんでいてスゴい迫力です




節子の方は昔、
この防風林の後ろあたりに畑をつくり
芋などを植えていたようです。




さて、帰りです。




潮が満ちる前に早く帰らなければ。




帰りは3人とも穴を通って帰りました。
途中で崩れないように、海?岩?の神様にごあいさつ。




漁サンが一番と言っていた現場監督M
この後、足の親指の爪がはがれ出血してました・・。

こういうところに行くときは
やはり磯足袋などが一番ですね。


ともかく無事に帰られてよかったです。


フアンキャには、
ウミガメの産卵の跡はあったたんですが、
玉手箱は見つかりませんでした。





2012.06.07 
瀬戸内町節子

S.B.I (瀬戸内町文化遺産活用実行委員会)



  


Posted by ヒギャジマン プロジェクト at 09:17Comments(0)奄美大島